雑誌を読んでいた手をふと止めて、宍戸は顔を上げた。時計の針はもうすぐ揃っててっぺんを向くところであった。そろそろだな、と寝転がっていた体勢から身体を起こす。脇に雑誌を放り投げた。熱中していたわけでもないスポーツコラムは、結局成功者が勝利の秘密を語る前に閉じられてしまう。
そもそもこの雑誌自体が時間潰しのためのもので、本当はこのコラムだって発売日当日にすっかり読んでしまっていた。典型的な努力型のこの成功者は“継続は力なり”で締めるのが大好きで、同じく典型的な努力型の宍戸もそこを気に入っていたのだった。
朝が得意ではない宍戸が、無意味に夜に起きていることなど滅多にない。ゲームの発売日前日は楽しみで眠れなかったり、発売されてから数日は興奮で寝付けなかったりもするが、愛犬の散歩も朝練も、宍戸にとって欠かすことのできない日課である。ただでさえ起きるのが苦手なのに、夜更かしなんて寝坊のリスクをあげるようなことを進んで行うはずもなかった。
その宍戸が今、読み飽きた雑誌を引っ張り出してまで起きているのは、今日が9月28日だったからである。正しくは、9月29日の前夜だからだった。
9月29日は宍戸の誕生日だ。
だからといって、宍戸が浮かれるようなことは何もないのだが。部活の忙しい宍戸が夕食の時間に帰らないことを知っている家族は、外食や豪勢な出前を頼むこともない。友人らだって、そりゃあ祝いの言葉をかけてくれはするだろうが、それを嬉しく思っても心待ちにして浮かれるほどではなかった。第一、宍戸は浮かれているからこうして日付が変わるのを待っているわけではない。
宍戸は、自分にこんなことをさせている原因である人間の顔を思い浮かべる。可愛いわがままだと宍戸も思った。ただし、そう思うためにはひとつだけ条件があったけれど。
もう少しで0時というとき、宍戸の携帯のバイブがベッドの上で鳴き始めた。就寝しているかもしれない家族への配慮からマナーモードにされていた携帯は、震動をシーツに絡めとられて、宍戸がこうして気にかけて見つめていなかったならば気づかなかったかもしれない。
表示されている名前は宍戸の予想した通り、宍戸に夜更かしをさせ、宍戸に携帯を見張らせた張本人――鳳長太郎その人であった。
「もしもし」
『もしもし、宍戸さんの携帯ですか』
「おう、俺だよ」
毎度律儀に確認を取る鳳に、いっそ“もしもし”のあとに名乗ってやれば親切かもしれないと思うのだが、名前を呼ばれる機会は多いに越したことはない。
日付の変わる少し前に電話を寄越した鳳は「今大丈夫ですか」と宍戸を気使い、それに了承を受けると「今おひとりですか」と次いだ。どちらにもイエスの返事を貰った鳳は電話越しでもわかるほど声を弾ませる。随分と喜んでいるらしかった。
『宍戸さん、宍戸さん』
「ん?」
『1年間、宍戸さんの貴重な時間をたくさん貰えて本当に嬉しかったです』
「…そうかよ」
『…来年も、』
言いかけた言葉に、宍戸は思わず半身を乗り出す。しかし不自然に途切れたと思ったら、もう時間ですねと呟かれてほんの少し落胆した。
『3、2、1…』
鳳の声に合わせて、宍戸も時計の秒針を見やる。ぴったりと長針と短針が合わさって、その上に細い針をもが重なったとき、鳳は静かにそれを告げた。
――宍戸さん、お誕生日おめでとうございます。
「…おう、さんきゅ」
喜びをひた隠したような鳳の声に、宍戸は知らず目を細める。
『今年も、いちばんに祝わせてくれてありがとうございます』
そうなのだ。宍戸が、普段はしない夜更かしをして、時間を持て余しながらも床につかず、もう誕生日に浮かれる年齢でもないのにこうして日をまたぐ瞬間を待っていたのは、すべて鳳が原因だった。
宍戸の誕生日を、誰よりも先に祝わせてくださいと“鳳が”お願いするのだ。
宍戸の家族が宍戸におめでとうと告げてしまう前に、幼馴染みの彼らが祝いを口実に馬鹿騒ぎを始める前に、自分が祝いたいのだと言う。
次の日の朝練では到底間に合わないから、鳳は毎年宍戸に、この日だけは0時まで起きていて自分の電話に出てほしいとわがままをねだった。
宍戸にとってそれは、実に可愛いわがままだった。
自分の誕生日を祝いたがる男のいじらしさを思えば、すげなく断るなんてできるわけもない。申し訳なさそうな顔をして「お願いがある」というくせに、鳳は毎年それを譲らない。他の誰にだって宍戸のいちばんを渡そうとしないのだ。
宍戸は鳳のそれを可愛いと思う。ただ、鳳が宍戸のいちばんを譲れないと思うように、宍戸にだって譲れない条件があった。
「…お前さあ、なんで毎年、いちばんに祝いたがるんだか」
『だって、宍戸さんの誕生日ですよ!』
「俺の誕生日だと、なんなわけ?」
ふと、電話の向こうで考えるような息使いを感じる。毎年当たり前のように聞いてやっていたわがままに宍戸が疑問を投げかけるのは初めてであった。
宍戸さんの誕生日をいちばんに祝いたいんですと懇願された宍戸は、鳳が自分の誕生日をどうして祝いたいのか言及したことはなかった。宍戸が尋ねずとも自ら答えてほしいと思っていたからだ。だのに、鳳はいつまで経っても答えを見つけられない。まるで気づいていないのだ。
鳳は宍戸のことを尊敬しているという。憧れていて、近づきたいのだという。宍戸の生まれたことをいちばんに祝いたくて、宍戸が楽しいと自分も楽しく、悲しいと悲しく、いつか宍戸に目を向けてもらいたいのだという。今以上にかと問うたら、何の躊躇もなく頷かれた。
宍戸は、後輩、友人、親友、チームメイト、仲間、ダブルスパートナーと、鳳をこれ以上ないほど見つめている。鳳が望む今以上の関係など、もうこの世の中にひとつしかないことにとうに気づいていた。
それなのに、宍戸はとっくの昔に気づいているのに、鳳といったらいつまで経っても自覚しないのだ! 宍戸に向けるその気持ち、まさか本当に憧憬だとでも思っているのか!
「…お前、今年中に気づかなかったら、来年は電話待っててやらねえからな」
『えっ!』
本当に焦ったような声色の鳳が自分の名前を呼ぶ。
どういう意味ですかと言い募る鳳に、うるさいとばかりに宍戸は終話ボタンを押した。
自分で気づくことが、宍戸が鳳に課したたったひとつの条件なのだ。今日の朝練は騒がしくなるに違いないと、宍戸はどこか楽しげに笑いながら大きくあくびした。
相変わらず鈍いのね
宍戸さんお誕生日おめでとう!
(130929)