天気予報の雪マークを見たときから、トキヤは今日を部屋で過ごすことに決めていた。
 特別雪を嫌っているわけではないが、体調管理の面から見るとあまり好きな天候ではない。凍てつく空気はのどに悪いし、風邪など引いてはたまったもんじゃない。滑りやすい路面を歩いて万が一のことが起こるのも避けたいところだ。トキヤがいくら気を付けて歩こうとも、スリップした自動車や前を行く人の転倒など、危険はいくらでもある。トキヤにとって雪の日とは、予定があるのならともかく、何もないのにわざわざ外出したいと思うような日ではなかった。
 昨日の放課後、翌日分の――つまりは本日の――レコーディングルームの予約がいっぱいで取れなかったときには、せっかくHAYATOとしての仕事もオフだというのにと舌打ちしそうになったが、今となってはむしろよかったとすら思う。普段は忙しくて後回しにしがちな部屋の片づけやキッチン周りの掃除をするいい機会だ。もしくは、ここのところ本棚に増え続けていた未読の本をじっくり読むのもいいかもしれない。しんしんとる雪の音に耳を傾けながら作詞をするのも悪くない。何にせよ、静かな時間を過ごせることはトキヤにとって嬉しいものであった。
 そう、静かなのだ。音也がいないと。
 騒がしい同室の男は、今朝早くに補習があるのだと慌ただしく外出していった。HAYATOの件で授業を休みがちなトキヤが出席日数の関係で補習を受けることになるのならともかく、皆勤賞の音也がなぜ補習に出なければならない事態になっているのかトキヤには理解不能である。寝坊したと大急ぎで身支度をしていた音也がそのくせ朝食はきちんと食べようとするものだから、トキヤはお握りだけ持たせて音也を部屋から追い出した。バタバタと玄関で靴を履いている音也に教室で食べなさいと差し出した朝食に、何だかんだでトキヤって面倒見いいよねと笑いながら言われたことが何となく腹立たしかったので、今夜のメニューはピーマンの炒め物に決めた(そう言いながら同居人の分の食事まで準備するところが面倒見がよいなどと言われる理由であることにトキヤは気づいていないのかもしれない)。

 静かな部屋というのは本当に久方ぶりのことで心が躍る。
 キッチンを綺麗に磨き上げて、部屋の掃除をする。元々あまり散らかっていない部屋だが――それはトキヤのスペースに限った話である――拭き掃除までできる機会はそうそうない。自分の生活する環境を整えるということは、自分自身の気を引き締めるためにも重要だ。しゃんと背筋を伸ばしかっちりとした格好をするのも、誰にどこから見られても胸を張れる一ノ瀬トキヤでいるためであった。どこもかしこもピカピカになった空間に満足げに頷くと、次はゆっくりと読書でもしようかとソファに腰掛け――トキヤは携帯がチカリと光ったことに気付く。
 どうやらメールが来ていたらしい。掃除に夢中で気付かなかった。急用であったなら大変だと慌てて確認すると、今朝早くに補習に行ったはずの人物からで、なんだ、と脱力した。お握りの感想と共に添付されていた画像には、音也の腰ほどまである雪だるまが写っている。
 ……この男は、補習に行ったのではなかったのか。こんなに大きな雪だるま、どれだけの時間をかけて作ったのか。のんきにお握りおいしかったよ〜なんてメールを寄越している暇など、ましてや雪遊びをする余裕など、よくもまああったものだ。
 青筋の立ちそうになるのをどうにか抑えて、真面目に勉強なさい、とだけ返信をする。
 まったく、あの男はアイドルを目指しているくせに、相変わらずその自覚が足りない。身体が資本なこの職業、どうしてああも体調管理に気を配れないのか。別にアイドルとなった暁に音也が体調管理の不十分さを原因に病気しようがどうしようが知ったことではないが、同室にいる間は困る。風邪を移されるなんてごめんであった。
 だいたい、こんな寒い日にあんな薄着で雪にまみれに行くなんて馬鹿としか思えない。トキヤは信じられないものを見た気持ちで携帯を閉じる。
 もう、さっさと本の世界に飛び込んでしまおう。買ったものの時間がなくて手をつけられていない本がたくさんあるのだ。どれから読もうかとそれぞれの本を頭の中に思い描いていると先ほど閉じた携帯のランプが再び灯る。なんだ、音也が返信を寄越してきたのか。顔をしかめて渋々と携帯に手を伸ばしたトキヤは、送り主の名前を見て途端に眉間のしわを緩ませた。

 ディスプレイには七海春歌と表示されていた。
 彼女はトキヤのパートナーである。公にはしていないが恋人でもあった。携帯が苦手らしい彼女はあまりメールを送ってくることがないのだが、一体どうしたというのか。嬉しさ半分心配半分でメールを開くとトキヤは固まった。

『一面雪景色で、すごいです!』

 添付ファイルには一面の雪と小さな雪うさぎが写っている。
 手のひらに乗せて撮影したらしく、春歌の真っ白な手が写っている。
 その真っ白な手から伸びる指が、寒さにかじかみ赤くなっているところが写っている。

 ―――何をやってるんですか!

 トキヤは伝わるわけもないのに携帯に向かって叫びたい衝動に駆られた。そんなに真っ赤になるほど冷えるまで素手で雪に触れるなんて! 彼女の指先は無限の音楽を生み出していく大切なものだ。あかぎれでも起こしたらと思うとトキヤは気が気じゃなかった。
 音也からの雪のメールと入れ替わりで来たそのタイミングの良さに、まさか音也と一緒に……と一瞬考えてしまったが、添付画像に写っている景色にすぐにそれが杞憂だとわかる。この場所は寮のすぐ裏だ。音也は学校に行っているのだから、そこにいるはずもない。
 ……一人でいるのだろうか。そんな寒々とした場所に。
 トキヤはコートと手袋を引っ掴み部屋を飛び出した。先ほど雪の日に外出なんてと言ったことなど棚に上げて、トキヤは急いで寮の廊下を進む。
 いいんです。誰に咎められたわけでもないのにトキヤは言い訳をした。これは、アイドルになるためにも必要なことなのだ。だって、私たちは歌を歌う。感情を込めて、思いを込めて。そのためには、様々な感情を知っておかなければならない。
 だから、これはそのためなのだ。
 雪の冷たさを知ることも、肌を刺すような冷気を感じることも、ウィンターソングを歌うには必要な体験じゃあないか!

 小走りに寮の裏手に回るとまだ春歌はいた。あんなに素手を真っ赤にしていたのに未だにしゃがみ込んで雪に触れているらしく、トキヤはずんずんと彼女に近づく。

「……まったく。こんなに寒い中、君は何をしているんです」
「い、一ノ瀬さん?!」

 驚いた春歌が慌てて立ち上がったのでバランスを崩してぐらついた。咄嗟に手を伸ばし足に力を入れる。危ない。彼女を助けられたことは役得だが、その原因を生み出したのが自分であれば何も喜ぶ点がない。これだから雪の日は。危なっかしい彼女を見ていると怖くて仕方がない。ハラハラとして、落ち着く暇もない。

「す、すみません!」
「いえ、私の方こそ驚かせてしまいましたね」
「あの、どうしてここに……?」
「添付されたメールですぐわかりましたよ。……君が素手で雪遊びをしていることも」
「う……」

 冷えた手を包み込むように握りしめると、春歌の手は想像通りすっかり冷えていた。こんなに冷やして、と知らずによった眉を怒ったものだと勘違いした春歌がますます小さくなってしまう。その様子が何だかもっと寒そうに見えて、部屋を出るときに掴んできた手袋を春歌につけてやる。男性用だからサイズは合わないが、機能性重視のトキヤの持ち物だ。温かさは折り紙つきである。
 春歌は慌てて一ノ瀬さんが冷えてしまいます! と手袋を返そうとしたが、その前にトキヤに、たとえ冷えても雪を直接触っていた君ほど冷たくなることはないので大丈夫ですとぴしゃりと言われてしまい、すみませんすみませんと何度も謝りながら拝借した。言い方が悪かったとトキヤもすぐにばつの悪い表情を浮かべる。

「せっかく積もった雪ですから。触れることが悪いと言っているわけではありません。ただ、君にはもっとその手を大事にしてほしいんです」

 だってその手は、これから数多の音を奏でるのだから。その指で形作られた曲しか、もう自分は歌えないのだから。
 それに、透けるようなその肌に寒さで赤みが差す光景は痛々しくてこちらが見ていられなくなってしまう。
 手袋越しに温めるように唇を寄せられかああっと赤くなった春歌は、あ、やら、う、やらとうめいた。うろたえた後、でもやっぱり一ノ瀬さんが冷えて……と言いかけて急に明るい声を出す。

「あ、あの! もしよければ、使ってください」

 転ばないようにゆっくりと、慎重に歩を進めた春歌がベンチの上に置かれていた鞄に手を伸ばした。屋根つきのそこは普段春歌がよく好んで座っていたところである。外で作曲するといい気分転換になるんです、と以前はにかんでいたことを思い出した。今日も曲を作るために出てきたのだろうか。

「本当は、きちんとラッピングもするつもりだったんですけど。さっき編み終わったばかりで」

 春歌の鞄から出てきたものはマフラーであった。
 毛糸の肌触りの優しい、落ち着いた色のそれを差し出してくる。

「まさか、君の手編み……ですか?」
「はい。久しぶりに編み物をしたので随分時間がかかってしまいましたけど、バレンタインには間に合うようにって。……一ノ瀬さん、チョコはあまり嬉しくないかと思ったので」

 恥ずかしげにうつむく春歌に、そんなことはないと告げたかった。
 正直、チョコレートは期待していた。いくら自分が普段からカロリーコントロールをしているといっても、恋人からのバレンタインチョコを拒むなんてことはできるわけもなく、またするはずもない。2月の下旬からはカロリー消費のためのトレーニングも特別メニューをこなすことになるだろうと思っていたが、それは幸せな計画であった。
 しかし、春歌が自分のことを思って配慮してくれたことがトキヤにはとても面はゆい。手編みというマフラーを受け取ると、編み目をそっとなぞった。春歌だって忙しい毎日を過ごしていることを、トキヤは重々承知している。そのなかで自分のために時間を割きこうして用意してくれたことがたまらなく嬉しかった。

「春歌。少しいいですか?」
「はい?」

 機嫌のいいときにはいいことも思いつく。
 トキヤは、失礼します、と彼女の首にマフラーを回し、自分の首にもその残りを巻きつけた。
 近い距離に春歌が固まり、それから慌てて離れようとする。一連の動作は予測済みで、トキヤは逃げられぬように彼女の腰に手を添える。

「今離れられると、首が締まってしまいますよ」
「はっ! す、すみません……!」

 クスクスと笑いながらからかったのに、春歌は大真面目に謝って身を固くしたままぎゅっと距離を縮めた。一ノ瀬さんの首を絞めるなんて、そんなこと間違ってもできない。彼ののどを抜ける空気は、鮮やかな色を持ち万人の心に語りかける。それを殺すような真似は春歌にはとても無理だった。
 マフラーを緩めるように近づいた距離に、春歌はついと視線を下に向ける。恥ずかしくてトキヤの顔を見られなかった。うろうろと彷徨う視線をトキヤのコートのボタンに合わせ何とか落ち着こうと試みる。
 それにしても。マフラーをふたりで巻いたこの状況は。これはまるで。

「なんだか、恋人同士みたいです……」
「おや、違うんですか?」

 ぽつりと呟いたひとりごとも、この近さなら容易く拾われる。ひょいと片眉をあげて問われて春歌は慌てて、ち、違わないです……! とトキヤを見やった。よろしい、と目を細めて自分を見つめるトキヤの眼差しがあまりに優しかったので胸が高鳴る。
 恋人同士。そう、自分たちは恋人同士なのだ。誰にも言えない関係であろうと、心は通じ合っている。
 だから、今日くらい。いいだろうか。一面の白い雪が、春歌をまるで世界にふたりしかいないような気分にさせた。そっと手袋をした自分の手をトキヤの手に重ねる。布越しの温度がもどかしく、せっかくはめてもらったそれを外してしまう。外気にさらされていたトキヤの手は冷たかった。

 この手を温められるのは自分だけであってほしいと、春歌だって思うのだ。
 トキヤが、雪に真っ赤になった春歌の指先を写真越しに見て駆けつけずにはいられなかったように。春歌もまた、冷えた彼の手に熱を分け与えてあげたいと願っている。

 重なった手に力が込められ、手を取り合ったままふたりは自然と笑い合う。こんなに見られてはまずい状況だというのに、トキヤは穏やかな心地であった。
 ここは外だ。だけど、こんな雪の日に、寮の裏手にまで来るような輩が一体どこにいるだろう。自分のように、こんな寒い日は部屋にこもるに限るという学生は決して少数派ではないはずだ。
 大丈夫だと心が告げている。見つかることを危惧し離れなければと思う心は、トキヤの中に確かにあった。けれど指先は惜しむように春歌の手の甲をくすぐる。

「……5分だけ」

 それ以上は、風邪を引くといけないですから。
 はい、と春歌から静かに返った返事に、トキヤは空を見上げた。5分と経たずに再び降り出しそうな天気。春歌の部屋に行くよりも、近くにある自分の部屋に招いた方が暖は早く取れる。
今から部屋に呼ぶ口実を考えて、結局は離れる気のない自分に笑った。

ウィンターソングの歌い方
(雪も、寒さも、きみといるためならば)

ハッピーバレンタイン!
(130214)