そのひとの周りはいつだって人に溢れていた。
 職業柄、人に囲まれることは多かった。キャアキャア言われることもよく言えば慣れっこだったし、悪く言うならうんざりしていた。
 毎日の“私”探しは、疲れる。
 今日はここに“私”がいた。昨日少しだけ“私”を見つけた。“りせちー”じゃない部分の私はひどく見つけづらく、それに辟易して休業してきたというのに、逃げてきた八十稲羽でも状況は変わらない。まるで地方営業に来たみたいだ。とにかく、どこにいても“りせちー”を求められる。りせちーはサービスじゃないのよ、なんて唾を吐きたいくらいに、そこでもあそこでもりせちーりせちーりせちー。“りせ”はどこにいるのか。目を凝らさないと見逃してしまいそうな、消えていってしまうような、そんな感覚にとらわれていた。

 “りせ”はいた。わかりやすく座り込み、歌い出しそうなくらいに辺りに花を漂わせて。けれどもその花は、りせちーのような華やかもあざとさもない、ただの女の子みたいな花だ。
 りせはいた。先輩の隣に。普通の女の子みたいに周囲に恋の花をまとわせて。見つけにくかった自分が喜色満面で全部そこに立っていた。



 少し酔っていた、かもしれない。酒にではなく、初恋の雰囲気に。

「先輩、キスして」

 いつものメンバー、なんて言える存在が出来たことも、りせちーに自分が侵食されていく感じに怯えていた頃には考えられないことだった。その“いつものメンバー”で集まって、他愛のない話をして。
 和己先輩がもてることは1年生の間でも有名だったけど、実際にその話を聞くとだいぶん堪える。学校の男子の人気を二分する雪子先輩とはもちろん仲がいいし、海老原先輩とも面識があるらしい。ふたりで授業を抜け出しているのを見たなんて噂もあったし、一時期は付き合ってるって話も出てたようだ。どれも私がここに来る前の話で焦燥感に駆られた。
 結局、付き合ってはないって先輩の口からはっきり否定されたけど、やっぱり気になる。
 夏目は振り方は綺麗だもんなと花村先輩がお弁当から白米を一口運んだ。気の持たせ方はえげつねえけど。
 完二も続いて、クラスの女子が先輩に告って玉砕したらしいんスけど、惚れ直したって騒いでましたよ、と。
 困ったように眉を寄せた先輩は、気を持たせてるつもりはないんだけどと頬を掻く。結構一途だよ、俺、と水筒に口をつけた先輩に、遊んでるわけじゃないのは知ってんだけどさー、噂絶えないよね君と千枝先輩がカツにかぶりついた。

 先輩は、先輩いわく結構一途らしい。
 それは、今なのだろうか。今現在一途に思ってる女の子がいるんだろうか。それとも、好きな子ができたら一途だよってこと?
 わからないけど、私は焦っていた。先輩が好きかもしれない女の子の影がちらりと見えた気がしてびっくりしていた。勝手に先輩は、今は私たちのリーダーとして忙しいから恋愛はいいかな、なんて考えていると思っていた。これは願望だ。もしくは盲信。アイドルは恋愛をしないの、仕事が恋人なの、とファンが思い込むような押し付け。



「先輩、キスして」

 気がつけば私は、恋の熱に浮かされてそんなことをねだっていた。お昼の会話が頭から離れない。今日の先輩の放課後時間争奪戦に勝ったのは私だ。少し遠回りしたいな、なんて高台にきたら、もう私は止まらなかった。
 先輩が私の名前を呼んで目を瞬かせる。

 だって、勝ち目なんてないじゃない。先輩に一途だなんて言わせるような女の子。数多の女の子を断って、先輩にずっと思われている、どこの誰かもわからないひと。
 というか、本当は。本当は、もう、どこの誰かもわかってて。だって、先輩と仲のいい女の子なんて限られている。――先輩を見る雪子先輩の目が嫌に熱っぽいことも、ずっと気づかないふりをしてきた。

「キスしてくれたら、私、ちゃんと先輩のことあきらめるから」

 仲間内で三角関係なんて、そんな泥沼誰だって嫌だ。もちろん私だってそう。和己先輩のことは好き。でも雪子先輩のことも大好きだから。優しくて、あんなに綺麗なのにそれを全く気にかけないで爆笑して、天然で可愛くて。素敵なひとだもん。お似合い、だと思う。
 先輩がびっくりしたみたいに目を見張って、それからその綺麗な顔を悲しげに歪めた。
 あ、って思った。あ、私先輩を困らせてる。そう思ったら急に鼻の奥がつんとして、潤む瞳をごまかすように瞬きした。泣いちゃだめ。それはもっと先輩を困らせることになる。

「キスはできないよ」

 先輩の弱った声が私に突き刺さる。
 もうすでに、口に出したことを後悔していた。あきらめるなんて言いながらあきらめられるわけもない。それにもし本当にあきらめられるんなら、私は黙ってするべきだった。先輩に、雪子先輩を裏切るようなことをしてなどと言ってはいけなかった。
 どうして言ってしまったんだろう。5分、いや3分でいいから時間が巻き戻ってくれたなら。後悔の渦にぐるぐるとハマって、視界が暗くなる。

 降ってきたのは予想外の言葉だった。

「あきらめられたら、困る」

 びっくりして顔をあげ先輩を見つめる。ぱちりと瞬きの拍子にとうとう水粒が目尻から零れて、ゆっくりと伸びてきた先輩の長い指に受け止められた。

「りせが、俺が誰を好きだと思ったのかわからないけど」

 先輩の濡れた指先が私の顔の輪郭をなぞる。涙の軌道のように頬を滑った水気が、熟れた熱に蒸発してしまうんじゃないかと思った。
 先輩の口元が優しく歪められる。

「俺も忘れるきっかけが欲しかったんだけど、忘れなくてもいいかな」

 最早、頷くことしかできなかった。


忘れたい話。
雪子「夏目くんの鼻眼鏡、思い出すたびに…ぶふっ…」
りせ誕生日おめでとう!
(130601)