「使わなかったんだね、それ」
手の中でマスターボールをもてあそんでいたトウヤは、後ろからかかった声に振り向く。
Nがトウヤの隣に腰を下ろして、二本持っていたサイコソーダを一本こちらに渡した。
「君はそれでゼクロムを捕まえることも出来たのに」
昔より随分とゆっくりになった話し方は、トウヤの影響だ。
サイコソーダを初めてNに飲ませたのもトウヤだった。あれからNはこればかりを気に入って飲む。
トモダチになったNとは違い、トウヤはゼクロムを捕獲した。
彼がゼクロムへ投げたボールはハイパーボールで、それを当時は不思議に思わなかったが――― 一般トレーナーが持て得る最も捕獲率の高いボールなのだから―――マスターボールを持っていたのならそちらを投げるべきだったのではないかと思う。
トウヤはニンゲンの希望だった。Nと信念をぶつけ合うべく、なんとしてもゼクロムを手に入れたかったはずなのに。
Nの疑問が通じたのだろう。当時を思い出したのか、トウヤは少しだけ苦く笑いながら言葉を漏らす。
「本当は、使うべきだってわかってた。そのために渡されたってことも」
ニンゲンとポケモンの未来のためにトウヤが一番すべきだったのは、確実にNと戦うことだった。だとすれば、ゼクロム捕獲は絶対に失敗してはいけないミッションである。
だけど、とハイパーボールに入ったゼクロムをいつくしむように見てトウヤは言った。
「だけど、俺はゼクロムの意思で俺についてきて欲しかった。マスターボールで強引に捕まえるんじゃなくて、ゼクロムにも選択肢をあげたかったんだ」
じゃないとNが言っていたような、自分のことばかりで身勝手なトレーナーになってしまうと思ったんだよ。
トウヤの言葉は、Nの胸に様々な気持ちを呼び立てる。
トウヤは、ニンゲンにすべての希望を託されてもなおポケモンを思いやっていた。
Nの言葉を覚えていて、考えてくれて。
「このマスターボールを使う時がもしあるとすれば、それはね」
「それは?」
そんなトウヤが、その絶対のボールを使う時があるのだろうか。
不思議そうに先を促したNにトウヤは少しだけ躊躇してぼそりと呟く。
「…Nが、もう一度どこかに消えてしまいそうになった時」
「え?」
「俺は迷わずお前に投げるよ。お前を強引に捕まえてでも、もうあんな気持ちにはなりたくないから」
探し出すまでの二年間。連れ戻すまではもっとかかった。
その間トウヤがどんな思いだったのか、Nはきっと、まるでわかってないのだ。どれだけ彼が必死だったのか、泣いたのか、自分を責めたのか。まるで。
トウヤがNの手を取って、どこにも行かないでと言うみたいにぎゅっと握る。
Nはそれに応えて手に力を込めると、なんて言っていいかわからず途方にくれた。
「…僕はポケモンじゃないよ」
「…気合いで捕まえてやる」
「…もう、君の前から黙っていなくなったりしないから」
「お願いだから、」
俺に、お前を閉じ込めるようなことはさせないでくれ。
ゆっくりとしたテンポで紡がれた会話はただただ懇願だった。
おまえの足をもがないために。
(捕まえて閉じ込めてしまわないために)
N半獣設定ならマスターボールで捕まえられるのだろうか
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