暦の上ではもう春なんて、そんなこと誰が信じるものか。トウヤは自分の指先に、はあっと息を吐きかけながら胸中で悪態をついた。極度の寒がりで真夏以外は年中長袖を貫くようなこの少年、お察しの通り冬が嫌いだ。指先はかじかむし、足の指など感覚もない。肌は乾燥と凍てつく風にあおられいっそ痛いくらい。おまけに吐く息まで白いし、と関係ないものにまで苛立ちの矛先を向ける。だいたい呼気が色づくってのはどういうことだ。空気とは見えない物質ではなかったのか。それがちょっと寒いくらいで――ええい、ちょっとどころではないのだけど!――簡単に性質を変えて。もう少し無色透明の自覚をだなあ…と、トウヤが窒素と酸素にまで八つ当たりを見せていると、その隣、同じ歩幅で歩く少年が苦笑した。

「ごめん。君は…寒がりだったね」

 弱ったような表情を浮かべるNに、トウヤはムッスリとした顔のままマフラーに顔をうずめる。話すのも億劫なのだという意思表示だった。

 少し遠出をしたのはNの提案だった。冬の祭りの所在をどこからか嗅ぎつけて目を爛々と輝かせるものだから、トウヤは渋い顔つきのままひとまず「…行かないからな」と釘を刺した。Nからどうしてだいだってお祭りだよお祭りがあるんだよと矢継ぎ早に言葉を浴びせられ口を閉じる。代わりに手が出た。トウヤは決して口達者ではないから閉口こそしたものの、彼に対して文句たらたらだった。
 祭りって人がすごく多いんだぞとか、人ごみに流されるお前を助けるのは誰だと思ってんだよとか、絶対雪に足をとられて転ぶだろとか――その祭り、とんでもなく冷えるんだぞとか。
 言いたい言葉はあっても、のどを過ぎればすべてが悪態となる。これは性分だからもう仕方がない。先ほどトウヤが心配したことなんて何一つ考えていないであろう、能天気にワクワクと目を輝かせたNがトウヤの返答を待っていて苛々する。
 Nはトウヤにしょっちゅうひどいと言うけれど、トウヤからしてみればNも相当ひどい。
 どれだけの苦労をもって、お前のわがままに付き合っていると思っている。
 何も伝わらないことに焦れて、背中に拳を振り上げた。

「痛ぁ! トウヤくんひどい!」
「うるさい。早く俺んち行くぞ」
「なんでだってお祭り、」
「準備があんだろ馬鹿」

 きょとん。不満をありありと示していたNが一瞬にして黙る。無視して歩き出せば、数歩先に出たところで追いかける足音を聞いた。

「なんだ、君も祭りが楽しみならそう言えばいいのに」
「蹴るぞ」
「いったぁ! 蹴りながら言ったら蹴るぞじゃないよねもう蹴ってるじゃないか!」
「もう一度蹴ったぞ」
「あうっ」

 二発目、振り上げた膝が腿の裏に入る。
 それきりNが黙ったのでトウヤも足を横に向けるのをやめた。



 はしゃいだNを引っ張って祭りを見るのは、それはそれは骨の折れる作業だった。
 すぐに立ち止まろうとするNを道の端に引き、屋台の食べ物をねだるNを黙らせ(屋台など何が入っているのかわかったものではない!)その代わりにきちんとした店で名物を買い与え(トウヤの懐からの出費である)トモダチを模した展示品に興奮して抱きつこうとする彼を拳で沈めた。格好に関しては一度トウヤの家に寄った甲斐あってきちんと防寒できていたが、想像通り休む暇なく彼を見ていなければならない。
 何よりトウヤが失念していたのは、昼間と夜の気温差である。トウヤ自身失態を犯したと気付いたのは、Nがくしゅんとくしゃみをしてからだった。

「…帰るぞ」
「え、ちょっと、早い!」

 粗方見てしまった後だから、返事も待たずに歩き出したトウヤにNも歩く速さに文句を垂れる程度ですんなりと着いてくる。
 途中で使い捨てカイロを買ってNに投げつけた。自分の分はポケットに仕舞い温まるのを待つ。
 そうして帰路に着いたトウヤが寒さからいつにも増して言葉少なになって、ようやくNは気づいたのだ。
 ――ごめん、君は寒がりだったね。



 冬の空はとても澄んでいて、トウヤはすっかり日も落ちたにも関わらず被り続けていた帽子をそっとずらし仰ぎ見た。防寒用のものではないにしても、いくらかマシになるので今さら脱ぎ去るなどできやしない。田舎道に街灯などそうそうあるものでもなく月明かりが心もとなかった。
 ふと、Nはきちんとついてきているだろうかと心配になって振り向いた。やや遠くにいるのが目を凝らしてようやくわかり盛大に顔をしかめる。あいつは、また一体どうしたというのだ。今踏みしめたばかりの道を戻れば、ぼんやりとしたNが空を見上げていた。

「おい、急に止まるなよ」
「…え? ああ、ごめんね」

 今しがたトウヤに気付きましたとでもいうような反応に苛立ち、肘を入れようとしてやめる。代わりに舌打ちを一つ投げつけてから尋ねた。

「…で?」
「え?」
「え? じゃねえよ。なに見てたわけ」

 なんとなく、Nが遠くを見ていた気がしたから。トウヤは不安になる。トウヤはNの背中が怖い。その背中を見ながら、サヨナラと言われるのが怖い。あの日みたいに、全てをよしとしたみたいに笑う、トウヤを瞳に映していないNが、怖い。

「何をと言われると難しいね。しいて言えば月をかな」
「は? 難しいとかなんだ。上向いて俺にも気付かなかったくせに」
「顔を向けていただけだよ。焦点はどこにもあっていなかった」

 君のことを考えていたんだ。
 トウヤの嫌味もさらりと流して(もとよりNはそれが嫌味だとも気付いていないのだとわかってトウヤはますますNがきらいになる)Nはこちらを見た。ピントがトウヤに合う。

「…なんだよ」
「冬の夜は星も月も美しく輝くね」
「空気が澄んでるんだ。寒いから」

 寒い、と自身から出た言葉に忘れていた感覚がよみがえる。Nに伸ばしかけていた指先が急に凍てついて、彼に触れることを戸惑わせた。そこで、Nの手の内に未だカイロが未開封で握られていることに驚く。

「せめて使えよ!」
「え?」

 彼の手中から奪い取り封を切ってやる。興味深そうに見ているNに、使ったことがなかったのだとわかった。それにすら苛立ち(果たしてNにだろうか。考えが至らなかった自分と、Nを取り巻いてきた環境にもその先は向いていた)それをそのまま渡そうとして、ああもう、とポケットから自分用にと買ったカイロを押し付ける。まるで3分クッキングのような、ではあらかじめ開封しておいたカイロがこちらです、とでも言うようにトウヤの懐で十分に温められていたそれはNに渡るや否やすぐに役目を果たした。Nの指先にじんわり赤みが差して、先ほどまでそこが青白かったことを知った。
 冷たいカイロをポケットの奥に押し込んでNの手を取る。え? ともう一度Nは首を傾けたけれど、今度は止めてやらなかった。引っ張るようにして歩き出すと、つられて、くん、とNの足も動く。

「トウヤ、手、」
「うるさい。暖とるくらい役に立てよ」

 こんな、カイロ一つ扱えないのだから、自分の指先をぬくめるくらいの仕事はしてもいいはずだ。そうやって正当化して(否、トウヤはいつでも自分は正しいと思っている。彼は自分の中の正しさに従い生きているのだ)Nの手を離さない。きゅ、とNもトウヤの手を握り返した。僕の熱で君が温まるのなら、それはとても嬉しいことだね、と花が咲くような明るい声が跳ねてトウヤに突き刺さる。
 やめろよそういう、純真無垢なリアクション。自分が汚い男みたいでまったく嫌になる。

「あ、ねえトウヤ、見て。月が、」
「さっきから出てるだろ」
「そうだけど、月がなんだか」

 さっきより美しさが増したと思わないかい。
 楽しげな声に、あの有名な小説家のような、はたまた先生のような、それでいて新聞社の彼の人のような意味合いは一切含まれていないのだろう。
 Nが数学に関しては天才であることは認めるけれど、文系はからっきしであることもまた周知のことだ。
 だからトウヤは断言できる。これには甘やかな言葉の裏など存在しない。言葉遊びでもないし、仲睦まじい恋仲の二人の密かな愛の告白でもない。正真正銘、ただのNの感想だ。

「君と見るからかな」

 トウヤは何も返事をしなかった。ただグッと帽子を目深に被り歩むスピードを速めた。
 もう防寒とは違う目的で帽子を外せず、誰にも見せられない顔になっていた。
 暗がりはトウヤの顔色を隠す。Nにも見られない確信はあったが、俯く視線は上げられない。
 頬の熱の色を月に見られてしまうから、なんて思ったのは、Nにあてられたからに他ならなかった。

果たして月は僕を僕らを見ていますか
(あなたといると月が綺麗ですね)

(130224)