その時千石は、うつらうつらと舟を漕いでいた。時刻は午後八時を少し回ったところで、夕食のステーキをたらふく食べて少々眠気が来たのである。あまり食卓にのぼることのない豪華なメニューに思わず母親を見ると「いいお肉が安くで売っていたからつい買っちゃった」と笑っていた。続く「今日のお母さんのラッキーメニュー焼肉だったし」にまごうことなき自分の親だなあとしみじみ感じ入り、食べ盛りの男子に相応しい量をぺろりと平らげてしまう。そうして少しだけ家族と共にテレビを見て、部屋に戻ってきた頃には少し眠気が兆していた。最後に見た番組が少々小難しい内容だったからかもしれない。わからない話題にあくびが漏れそうでそそくさと部屋へ退散してきたのだが、眠気の振り払われないままちょっとだけベッドに横になってしまおうかなどと考えていた。そのままふらふらとベッドに近寄りすっかり重たいまぶたをそっと下ろす。眠る気はなかった。ゆるゆるとした心地よいまどろみを感じる。
 けれども聞き慣れた着信音に、千石は思わず飛び上がった。

『なんで来ねえ』

 開口一番「これ」である。
 千石の電話帳の一番上に名前がある恋人――跡部は、電話越しでもわかるほど不機嫌そうな声だった。普段より忙しい跡部は、三コール以内で出ないとすぐに電話を切ってしまう。これは「三コール以内で出ろ」という意味ではなく「三コールで出られないような忙しい状況ならあとでかけ直すからいい」という意味であるのだが、千石にとって大した違いはない。おかげで千石は大慌てでスマートフォンを鞄の中から探す癖がついた。跡部のように普段からスマートフォンの仕舞い場所や置き場所を固定しているならまだしも、適当に鞄に放り込んだスマートフォンを三コール以内に発掘するのはなかなか難しいことを千石は未だに跡部に言えないでいる。三コールで取れない理由は忙しさだけではないのだ。
 以前昼休みに跡部専用に設定してある着信音が鳴った際、躾けられた犬のように素早い動きを見せた千石に亜久津が引き気味であったことを唐突に思い出した。
 そういうわけで、千石にとってこの着信音はどんなに心地よいまどろみの中でも聞き間違えるわけのない音であった。無論、耳に押し付けたスピーカーから流れてくる声も然り。無事に三コール以内にとることに成功したご褒美とばかりに与えられるバリトンはいつでも千石の心を高鳴らせるが、今回ドキドキしているのは違う意味合いである。

 何せ彼の第一声。『なんで来ねえ』。それにこの不機嫌を隠しもしない声音!

 千石は今日が何の日か知っている。忘れるはずもない、十月四日日曜日はこの電話の向こうの恋人の誕生日だ。だから千石は日付が変わったと同時にメッセージアプリを起動してメッセージを送ったし、それに既読がついたことも確認した。返事を要求するには今日は彼はあまりに忙しいだろうと容易に想像がついていたのでそれで満足だったのだ。
 だって、千石は知っている。跡部は雲の上の人なのだ。そりゃあ自分も、中学二年生でジュニア選抜に選ばれるなど多少は華やかな実績を有しているが、それでも肩書きは一般人だ。中学三年生の枠組みから外れるようなことは何もない。しかし跡部は違う。彼は確かに中学三年生であるが、特別な人間なのだ。跡部財閥の一人息子である彼は、今年は誕生日が日曜日であったことも手伝って、この土日をさぞや華々しく過ごしたのだろう。もしかしたら本人にとっては不本意でつまらない時間だったのかもしれないが、そういうことが求められるような人物なのだ。千石が手を伸ばして、それを握り返してくれたのが今でも不思議なくらいな人だ。天上の人。雲の上の、もしかしたらそれより更に上の人。だからいくら恋人とはいえ、誕生日とはいえ、言えるわけがなかった。言えるものか。彼の時間が欲しいなど。自分に彼の時間を割いてほしいなど。忙しいことは百も承知だ。一体、どの面を下げて言えばいいのか。
 千石は、零時ぴったりに送ったメッセージにすぐに既読マークがついたというそれだけでもう満足だった。彼がその瞬間、自分のことを考えてくれたであろうそれだけで。もっと言えば、今日の夕食、母親がいつもより豪華な食事を作ってくれたことも、後日――今日ではない、誕生日が終わってからだ――跡部に会った時にでも笑い話になればいいと思っていた。「今日跡部くんの誕生日なんだよ」と言った千石に、母はまさか息子の言う「跡部くん」が跡部財閥のご子息だとは思わなかったのだろう。「あらーめでたいわねえ」と軽く流されて、千石は思わず笑ってしまう。このやりとりを「跡部くん、うちでも跡部くんの誕生日お祝いしたんだよ」と後で話せれば、それだけでいいと思っていたのに。

「だ、って、跡部くん今日忙しいでしょ」

 ――嘘だ。それだけでいいなんて、満足だなんて、思えるわけがなかった。だって好きなのだ。恋人なのだ。どうして彼が自分の手をとってくれたのかはわからなくても、間違いなく彼は自分の思いに応えてくれた。そこだけは疑っていない。疑ってはないけれど。

『ああ、忙しいな』

 落とされた言葉に、ああ、やっぱりと落胆する。それでもわざわざ電話をかけてきてくれたことを喜ぶべきだろうという心が頭をもたげて、千石は殊更明るい声を努めて口を開いた。「だよねー、でも電話してきてくれてすごい嬉しかったよ! ありがとう跡部くん。お誕生日おめでとう!」。言おうとした言葉は、跡部の声で吹き飛んだ。

『だから家からは出られねえ。――お前が来ない限り』

 ひゅ、とのどを空気が通る音がする。電話越しに聞こえてしまわなかっただろうか。
 跡部はくれるというのか。雲の上の人の、一年にたった一度しかない誕生日。一般人の自分には想像もつかないようなその大切な時間を。うぬぼれてもいいのだろうか。跡部もまた、会いたいと思ってくれていると、そう思ってもいいのだろうか。不機嫌な声も、電話をくれたわけも、全部。

 誕生日の夜を空けるのに跡部がどれだけ苦労したかなんて、千石は知らない。いつまでも遠慮して身を引く千石に、お前は誰の恋人なんだと跡部がやきもきしていることも。「お前だけが好きと思うなよ」どころか「お前本当に俺のこと好きなのか」と不安になるくらいなのだということも、何一つ。

「……ねえ、跡部くん。ちょっと遅いけど、今から行ってもいい?」

 君に直接言いたい言葉があるんだ。自分の声が震えていることに、跡部は気づいてしまっただろうか。気付いている気がする。だって笑っている。見えなくてもわかった。まぶたの裏に跡部の綺麗で優しい笑みが浮かぶ。
 最初の不機嫌が嘘みたいにやわらかい声で跡部は返事をした。

『待ってる』


跡部様ご生誕おめでとうございます。
(151004)