歩いて帰るというのも新鮮なものだな、千景はこっそりと思った。
普段は自転車登校をしている千景は、いつもより緩やかに流れる風景に瞬きをする。
千景の愛車はただいま自宅待機中だ。
昨日、下校中に鋭い何かを踏んでしまったらしい。気付いた時には前輪から空気が漏れ出て使い物にならなくなっていた。
タイヤをすぐに変える余裕がなく、仕方なしに今日は徒歩で登校したのだった。
「すみません、付き合わせて」
千景は隣を歩く少女に申し訳なさそうに声をかける。隣の少女―――京子はゆるりと笑った。気にすんなと言われれば少しは気も楽になるが、それでもやはり済まない気持ちの方が強い。
「でも、いつも電車で帰ってるんでしょう?」
「たまには運動しないと体力が落ちるからな、丁度良かったよ」
「…もー、京子さん、ほんとオトコマエ」
運動をしたかったのは本当かも知れない。
丁度良いと思ったのも、嘘ではないだろうけど。
しかし、このタイミングでそれを言うのはわかりやすい気遣いだった。
「馬鹿、褒めても何も出ないぞ」
京子が大人びた顔で笑う。あ、と千景は思った。この顔を千景は知っている。
彼女が毎日世話を焼いている同級生達に見せるお姉さんの表情だった。
やっぱり自分もあいつらと同じ、弟のような位置にいるのだろうか、と少しだけ落ち込む。
「…大体、男前はお前の方だろう」
先程とは違う種類の笑みを浮かべた京子に千景は目を瞬かせた。
少しだけ照れた様な、目尻をほんのりと赤らめた表情に釘付けになる。
彼女の視線を辿って、何故急に京子がそんなことを言い出したのかを悟る。そうして合点がいった様子で千景は、ああ、と頷いた。へらりと笑う。
「レディーに歩かせといて荷物なんて持たせられませんよ」
「…ばか、レディーとか言うな」
恥ずかしい、と声に出されこそしなかったが京子の言わんとすることがわかって千景は顔を緩ませた。
京子は女扱いされることに殊更弱い。
身長も高く力もあり、京子自身の立ち振る舞いも手伝って女の子に見られることが皆無だったせいだ。
勿体ねえなあ、と千景は思う。京子さんは美人で綺麗で可愛くて、こんなに優しいのに。どうして誰も彼女を見ようとしなかったのか。
ただ鞄を持ってあげるだけでこんなにも初な反応を見せる京子は、千景にとって誰よりも女らしい女の子だった。
「京子さん」
「なんだ?」
「手ぇ繋ぎませんか」
ガンッと頭を殴られた。
「馬鹿か」
「ひどいですよ京子さん…」
「お前が馬鹿なこと言うからだろ」
「馬鹿じゃないです。本気です」
放課後デートみたいじゃないですか。
顔を覗き込む様にしてそう言うと、京子の頬がわかりやすく染まる。
突然出てきたデートという言葉にこんなにもうろたえる京子が、千景は愛しくて堪らない。
あー、だの、うー、だの、言葉にならない音を出して困り果てた表情をする京子に千景は助け舟を出す。
「じゃあ、あそこの角までで良いんで、繋ぎません?」
「うう…」
「俺のわがままです。すみません」
俺のただのわがままだから、京子さんは折れてくれるだけで良い。
渋々と言うスタンスで、さも俺が頼み込むから仕方なく、という風で構わない。
千景の言外の意味を読み取った京子が、甘える様にして呟いた。
「…しょうがないな」
「はい、すみません」
千景はきちんとわかっている。
京子が戸惑ったのは恥ずかしいからで、決して嫌だからではないことくらい。
普段は千景よりも男前なこの少女は、恋愛にはひどく奥手だった。
だから、それでいい。千景のわがままに付き合ってやったという言い訳くらい、彼女の中でいくらでもしてくれて構わない。
「…あそこの、角までな」
「はい」
「ほんとに、そこまでだからな」
「わかってますよ」
ゆっくりと握り返された手に幸せを感じながら、千景は歩くスピードを緩めるのだった。
あそこの角
(そうしてそこで、延長の申し出をするけれど)
(111008)