「ただいまー」
6時28分。とうとう6時半を切ることに成功した。
最近会社を早く出るのが随分うまくなった。とは言っても、仕事を疎かにすることなど出来ないので(明日のご飯も食べられないような事態が一番困るのだ)身の回りの整理が上手になったというべきか。机の上は仕事をより行いやすいよう整えて、鞄はすぐに手にして走れるよう荷物をまとめて。定時上がりを目指しきびきび働く。今までだって手を抜いていたわけではないけれど、一分一秒を惜しむほど仕事熱心なサラリーマンではなかった。残業手当が出なかろうと、終わらなかったのだから仕方がないとのろのろとサービス残業していた頃が遠い昔のようだ。さすがに毎日定時で帰れるなんてことはないものの、2時間3時間もかかるような残業は久しくしていない。
仕事が早くなったのはいいけれど付き合いがとんと悪くなった、と同僚はよくぼやく。今日も退社間際に恨めしげな眼差しで直帰か? と問われてしまった。曖昧な笑みでごめーんと謝ったものの、次の飲み会の誘いはさすがに断るのが難しそうだ。
酒は嫌いじゃないし、同僚も飲み会も好きだ。しかし、今は何よりも優先すべきものが俺にはある。
「おかえりなさい」
俺の帰宅の声を受けひょこりと廊下の角から顔を覗かせた存在に頬が緩む。やはり来週も飲みには行けないと直感した。
一ノ瀬トキヤと暮らすということ。仕事の効率がよくなる。飲み会の付き合いが悪くなる。ただいまの声におかえりなさいと返ることが、たまらなく嬉しくなる。
靴を揃えて立ち上がり、キッチンに直行したい気持ちをぐっと堪えて手洗いうがいを済ませた。この一手間をこなすだけでトキヤの機嫌が随分変わることを俺はよくよく知っていた。
機嫌を損ねることなくトキヤに近づくことができた俺は、ようやくキッチンに足を踏み入れる。
「音也、コートくらい脱いできたらどうです」
「あ、忘れてた」
「ここで脱がない! 埃が立つでしょう、リビングでなさい。ああ、ちゃんとハンガーに吊してくださいね」
「はいはーい」
「返事は短く一回!」
「はい」
危ない、うっかりコートを着たままだった。トキヤの眉がやや釣り上がり、耳がピクリと動く。が、このくらいなら通常レベルだ。言われた通りにコートをハンガーへかけて、今度はリビングからトキヤに声を張る。
「今日のご飯なにー?」
「かれいの煮付けと、じゃがいものお味噌汁、あとは酢の物が」
何それ今日も超おいしそう。
主食、主菜、副菜。学生の頃家庭科の教科書でしか見たことのなかった理想的な献立が、我が家のキッチンでトキヤの手によって生み出される。
トキヤは料理が好きらしい。俺を気づかって無理しているわけではなく、どうやら本当に。
トキヤはあまり外食が好きじゃない。栄養バランスの整ったご飯を作らせたら、俺の知る限りトキヤの右に出る者はいない。
最後の品を皿に盛り付け終えたトキヤがキッチンに設置している踏み台を下りた。両腕を小刻みに震えさせながら持ってきたので、重かったのだろうと迎えに行って受け取る。片手で持ててしまう皿と、食器棚から二人分のコップを取り出した。
「トキヤはこっちお願いね」
「はい」
しっかりとコップを抱えたトキヤの頭をいい子いい子と撫でたら、ムッとした表情でやめてくださいと拒否された。リビングへ逃げたトキヤの耳はピクピクと機嫌よさげに震えている。ズボンから伸びる深い紫はピンと立っていた。構ってもらえて嬉しいらしい。
「……音也?」
追いかけて来ない俺を不審がってトキヤが振り向く。頭や尻から生えるものは、まさしく猫のものだった。
トキヤは俺の腰ほどしか身長がない。従ってその腕も足も、折れてしまうんじゃないかと心配になるくらい細くか弱い。
トキヤには、髪と同色の猫らしい耳や尾がある。感情は筒抜けなのだけど、トキヤはまだそのことに気づいていないようだ。
トキヤが何者なのか、俺は知らない。今までどこに住んでいて、どうしてここに居続けてくれるのか、俺は何も聞いたことがない。
初めてトキヤと会ったのは土砂降りの雨の中だった。行き倒れのように子供がうずくまって、その身体が冷え切っていたから。救急車が到着するより俺の家へ担ぎ込んだ方が早いと判断し大慌てで“誘拐した”。
着ていた服がボロボロであったことも、目深に被ったフードも、何も履いていない裸足のままの恰好も、すべてが嫌なものを連想させたからだ。俺は孤児院で育ったから、少しそういうものに敏感になっていたのかもしれない。
家に着くや否や風呂を沸かし、その間にタオルを用意し拭いてやらないとと洋服を脱がせたところで、トキヤの人ならざる点には気付いたけど。それよりももっと気になったのは、首に付けられた革製の首飾りだ。チョーカーと言われたらそうなのかもだけど、耳としっぽがその考えを否定してくる。
トキヤは人目が苦手らしい。意識が戻ってからも救急車を呼ぶことも医者に見せることも嫌がったから、トキヤはあの日からここにいる。食材の買い出しなんかのため休日に抱きかかえて連れ出すとちょっと喜ぶけど。外が完全に嫌いというわけではないようだ。
一ノ瀬トキヤと彫られた以外に何もないそれは、今でもトキヤの首に居座っている。
外してやった方がいいのか、付けていることがトキヤにとって何の意味を持つのか。
わからないから、手を出せない。
「……音也くん? 音也くんってば!」
少し物思いに耽っていたら、俺の膝に乗っかってトキヤがわかりやすく膨れていた。
そうだ、あれから一緒に晩ご飯食べて。トキヤの作るご飯は相変わらずおいしい。それで、片付けまでさせてしまったのか。いつも進んで後片付けまで買って出てくれるが(トキヤいわく“後片付けまでが料理ですから”らしい)毎日それでは申し訳なかった。
「もー、僕が目の前にいるのに何考えてたのかにゃ?」
コトリと首を傾けてトキヤが上目で俺を見つめる。計算し尽くされた仕種はいっそ自然だ。まるでどこかで訓練されたみたいに、トキヤは普段はしない仕種を、クセを、今だけ見せる。
「んー? お前のこと考えてた」
「にゃっ、音也くんたら調子いいんだからあ」
それでも嬉しそうに破顔するトキヤの頭を撫でてしっかりと抱っこした。トキヤが俺にもたれかかり体重を預けてくる。
「今日、結構早く帰ってきたでしょ」
「うん、いつもよりちょーっとだけ早かったねっ」
「お前に早く会いたかったから頑張っちゃった」
トキヤが嬉しいにゃあと目を細めた。すり、と頬を胸に擦り寄せる。
「……ね、今日は一緒お風呂入ろっか」
「うん!」
満面の笑みで頷いたトキヤだが、その実耳も尾っぽも微動だにしないのだから恐ろしかった。
普段のトキヤなら俺の言動にはもちろんのこと、自分の言葉にだって耳や尾を反応させる。それが、このときばかりはまったく機能しないのだ。
トキヤはたまに、まるで別人のような振る舞いをする。この状態のときに“トキヤ”と名前を呼ばれることをひどく嫌がる。
この別人を何と呼んだらいいのかは、未だわからない。
「ただいまあー……」
結局、今週は飲み会を断れなかった。大きな仕事が一段落した後で、上司も来るなら抜けようがない。既婚者でも捕まっているというのに、家で帰りを待つ者のいないと思われてる(余計なお世話だ)独身者が逃がしてもらえるわけがない。
ゆらりと不機嫌げにしっぽを揺らすトキヤがそれでも玄関まで出迎えに来てくれるのだからいじらしくてたまらなくなる。
「おかえりなさい……」
「ときやぁー、ただいま! ごめんね、待たせて」
お詫びと言いながら額に髪の上からキスを贈った。やめなさい! と顔を真っ赤にして怒鳴るもんだから、初めて酔った勢いと称しふざけてしたときは酔いが覚めるほど驚いた。けどトキヤの場合言葉よりも他の部分を見た方がわかりやすいのは知っていたから。ぴーんと立たせたしっぽは逆立ってもいなければばしばしと足を叩くように激しくしなってもいない。
あ、喜んでるんだ、と知ったとき、自然とかわいいなあと思った。
トキヤはキスをされると案外喜ぶ。
だけど、髪の毛にもおでこにも、ほっぺにだって押し当てた俺の唇は、桜色したトキヤの唇にはまだ触れていない。
「ん、ちょっと、あなたどれだけ飲んだんですか。普通の顔色して実はすごく酔ってるでしょう……!」
ちゅ、ちゅ、とキスの雨を降らせば耐えられなくなったトキヤから待ったがかかる。
実は“普通の顔色して中身もそれほど酔っていない”が正解なんだけど、俺は今酔っているってことの方が都合がいいんだ。
「んー……トキヤ、もうお風呂入っちゃった? 一緒入らない?」
「もう入りました。だいたい酔っ払いと共に入浴など肝が冷えるどころではありません」
トキヤはキッチンに水を汲みに行ってくれたらしい。そのあとを追いかける。踏み台に上り蛇口まで手を伸ばして水を用意するトキヤに後ろから抱き着いてねだった。
「えー、もっかい入ろうよ」
「嫌ですよ」
「とーきーやー」
「はいはい。……明日なら付き合って差し上げますから、今日はさっさと済ませなさい」
諦めたようなその言葉、ちゃんと言質に取ったぞ。
酔っ払い相手に覚えていないと思っているのかもしれないけど、おあいにくさま、俺は酔いが覚めても記憶は飛ばない性質だ。というか元より酒には滅法強い方で、手の付けられないような酔い方なんて滅多にしない。
「ん、トキヤありがと。好き」
「……」
トキヤの身体に回した俺の腕を、小さな手がきゅ、と掴む。何も言わないからいつも都合のいいように解釈しているそれは、俺がこんな風に酔ったときにしか見せない行動だった。
トキヤは酔った人間に甘くなる。態度が軟化するだけじゃなくて、詰めの方も。
トキヤは、酔っ払いは翌日何も覚えていないと思っているのかもしれない。
酔い潰れて眠ったと思ったのか、トキヤがそっと布団に潜り込んできた。だから俺は寝たふりをする。
トキヤが喜ぶなら嫌がる素振りも無神経なふりで無視して頭を撫でてあげるし、トキヤじゃないときみたいに振る舞ってるときに名前を呼んでほしくないというのなら呼ばない。キスしてほしいのにねだれないトキヤのために、時折適度に酔って帰宅することも厭わない。
だからトキヤが、俺が寝たと思ってやってきたのなら俺は眠っていてやるのだ。
「……あなたは、いつまで私を飼ってくださいますか」
胸の中、少し湿り気を帯びた声に身じろぎのふりをして小さな身体を抱き寄せた。賢く落ち着いた言動と身体のサイズがまるであってなくて、話してるだけだと忘れてしまいそうになるけどトキヤはまだ小さい子供だった。
一ノ瀬トキヤを飼うということがどういうことか、俺はまだ知らない。
一ノ瀬トキヤを飼うということ
(130301)