メールの受信音に洗い物をしていた手を止めると、同時に玄関のドアが開錠される音がした。
 ああ来たんか、と時計に目をやる。今年は遅かったな。もうすぐ10時になりそうな針にそう思い、スマホを掴んで音の方へと足を動かす。明かりをつけたのと扉が開いたのはほぼ同時だった。

「よお」
「いらっしゃい。…来る前は連絡ちょうだいって毎回言うてるやん」
「した」
「ドア開ける瞬間はノーカンや」

 おらんかったらどうすんねん。続けようとした軽口は音にする前に飲み込んだ。他の日はともかく、今日自分が家にいないことなどありえない。それを告げることで跡部にありもしない「自分がいない可能性」を想像させるのもまた、忍足にとっていいことではなかった。跡部は、今日だけは自分がどこにも出かけないことを知っている。それでいいと思った。何も間違っていない事実だ。
 手のひらの中では、スマホが未読メールを知らせチカチカと点滅している。差出人は見なくてもわかった。目の前の人物からだ。

 初めに跡部がふらりとここへ訪れてきたのは、大学生の頃だった。大学に入学して一人暮らしを始めた忍足の元へ、跡部は度々遊びに来ていた。それは2人きりの時もあれば中学の仲間と大勢の時もあったが、忍足はどっちだってかまわなかった。忍足以外の仲間は皆実家から大学へ通っていたため溜まり場になるのは火を見るよりも明らかだったし、今さら鬱陶しく思うような間柄でもない。礼儀を弁える跡部はアポイトメントをとることを忘れなかったし、その際必ず手土産を持ってくるような律義さだった。
 だから忍足はその日――10月4日に、夜の9時を回って突然訪ねて来た跡部に心底驚いた。こんな時間にインターホンが鳴るのも不審だというのに、ひっそりと外を窺ってみれば跡部がいるではないか。おまけに、跡部はピンポンダッシュでもする気だったのかというくらい素早く身をひるがえし、忍足がドアを開けるのも待たずに立ち去ろうとするものだから更に戸惑う。慌てて扉を開けて彼を呼び止めなければ、きっとそこで何もかも終わっていただろう。
 どうしたんやと、何かあったんかと、そう尋ねてみたい気持ちもあったが、忍足は人の感情の機敏には鋭い方だと自負している。ピンポン鳴らして3秒でさよならは早すぎるやろ、少しくらい待ちいやと跡部を引き止め、彼を部屋へと招き入れた。跡部は正装をしていた。今日が誕生日だということも知っている。財閥主催のパーティーの帰りなどだろうか。だとしたらどうして自分のところに来たのだろう。
 全てわからなかった。わからなかったが、忍足は何も聞かなかった。腹が空いていないかと夕食を出し、泊まっていくのかと寝着を用意した。それだけだ。次の日には跡部はふらりと立ち去って行った。
 その後も普通だったので、あれは一夜の幻だったのだと思うことにした忍足の度胆を抜かせたのは、跡部が翌年も、その翌年も来たことだ。だから忍足は、毎年この日は家で過ごす。跡部が来るから。ただそれだけが理由だ。

「今日夕飯豚の角煮やってんけど」
「食う」
「はいはい」

 初めて来た日、忍足は跡部の誕生日だと知っていたから「ピザでも取ろか」と尋ねたのだが、今食ってきたもんを何でここでも食わなきゃなんねーんだと一蹴された。そのくせ腹が減ったと言うので夕食の残りの牛丼を出したら、本人は言わなかったが案外気に入ったらしい。それから忍足は毎年、跡部が来ると知っていながらも普段と変わらない夕食を準備する。要は普通のものが食べたいのだ。
 角煮を温めながら、忍足は跡部の上着を脱がし丁寧にハンガーへ吊るす。「手え洗ってき」「ん」「“ん”やなくて」。少しばかり気の抜けた返事に答えながら食卓の準備をする。
 何度も何年も跡部と9時以降の逢瀬をくり返して、忍足は少しずつわかったことがある。
 跡部の誕生日は、もう彼が生まれた日だけではないのだ。家では跡部財閥主催のパーティーが開かれ、お偉方への挨拶回りにスポンサーをしている企業でのイベント、10月4日の彼のスケジュールは、彼を純粋に祝うものばかりではない。
 多くのファンを抱える跡部は尽くされる側の人間であると思われがちだが、実際はその逆なのだ。跡部は実によく尽くす。中学時代はテニス部の部長と生徒会長を兼任し、どれだけ氷帝学園へと貢献したことか。高校、大学でもそれは変わらず、今は自身の家のために動き回っている。彼に尽くす人間はもちろん多くいる。しかし、元より跡部は一人で何でもできてしまうような人間だ。ふんぞり返って施しを受けるのをただ待つような暇はない。
 だから彼は疲れてしまうのだと忍足は思った。豪華な食事を堅苦しく食べるのも、気を張った笑みを浮かべ続けるのも、無論跡部は完璧にこなす。ただ、疲れないわけがないのだ。跡部だってただの人間であるのだから、どこかで気を抜かなければやっていられないはずなのだ。
 その「気を抜く」場所に自分の元を選んでくれたのだと思えば、忍足はもう10月4日に他の予定を入れることなど出来はしなかった。跡部は自分の恋人でも何でもない。好きだとか付き合おうとか言い合った覚えは一度もなかった。ただ、大切な人であることには変わりはない。甘やかしたい。癒してやりたい。できればそれを自分が与えたい。好きだとも付き合おうとも口に出したことがなくても、出会った頃の中学生じゃあるまいし、これがどんな感情なのか、理解するのは簡単だ。
 ゆっくりと跡部が食事がするのを、忍足は向かいに座って眺める。ぽつぽつと会話をしながら、彼の短い相槌を受け止める。

「もう眠いん?」
「ん」
「じゃあ、寝よか」
「…風呂」
「入るん?」
「…ん」
「入れる?」
「……」
「ほな一緒入ろ」
「ん…」

 これから忍足は、跡部を目一杯甘やかす。風呂に入れろと言われれば一緒に入って髪や身体を洗ってやるし、髪の毛を乾かすことも風呂上りのシャンパンを用意することも、言われずともセットで行えるようになるくらい跡部は10月4日をここで過ごしてきた。
 跡部がここを選んだ。だから自分は待っている。
 今日が終わる最後の時間を過ごす相手に、跡部は他の誰でもなく自分を選んだ。だから忍足は、今日が昨日になるまでの残りの2時間を、普段は尽くす側の人間である彼に尽くして、とろとろに甘やかして、跡部のことだけを考える。この2時間は、跡部が自分にくれたものではない。自分が跡部に捧げた2時間だ。
 「誕生日おめでとさん」と、忍足が跡部に告げるのは今日が終わる間際も間際だ。眠りのふち、抱きしめろとも言わずにこちらに手を伸ばす跡部を抱えて一緒にベッドへ潜り込み、髪を梳き額や頬を撫でながら落とす言葉に、彼は猫のように目を細める。心地よさげにすり寄る姿に、忍足は一度も口にしたことがないが常日頃感じている思いを一層募らせるのだ。その気持ちを跡部も同じように感じているといい。
 午後10時。今から跡部の誕生日が始まる。

2時間だけのバースデイ。

きっと互いに好きだけど、忍足は跡部がこの言葉を望んでいないと思っていて、跡部は忍足のその言葉を待っている。
跡部様、ご生誕おめでとうございます。
(141004)