いわく、夜は勉強がはかどるらしい。
 勉強嫌いな関西弁の友人の言葉を信じるならばであるが、あながち外れというわけでもないかもしれないと、柾輝はうんと伸びをした。凝り固まった肩をほぐすように回す。ふと部屋の隅、部活引退後は慰め程度にしか触れていないサッカーボールに目をやった。真新しい傷のないそれは、柾輝がサッカーから離れて久しいことを表す。
 かつての部長であった翼が引退し柾輝が新部長となってからすでに一年が経った。その柾輝も今は後輩に地位を明け渡したのだから随分と月日を感じさせられる。自分が上に立つような人間でないことは重々理解していたが、かといって前部長の推薦を断れるわけもなく。どうすっかなあといささか不安を感じながら引き受けた任は思いの外やりがいもあり楽しかったように思う。初めは翼のいないサッカー部に難色を示していた教師陣も、西園寺の手助けもあり今では比較的温かい目で見守ってくれるようになっていた。
 翼が自分たちにサッカーをできる場所を作ってくれたように、自分たちも後輩に何か貢献できたと思う。もともと無骨な連中の集まりであるが、翼に貰ったこの場所を守ることに関しては考えなしではなかった。素行だって大分よくなったと感じる。

『公立なんだが、ここに行ってみないか。今のお前なら努力すれば充分に手の届く範囲だ』

 生活指導と進路指導の役目を兼任している先生は、自分の荒れていた時代を知っている。知っていて、今の自分であれば高校に行けると期待を寄せてくれている。
 不良と見限られてきた柾輝には、その期待はこそばゆくも嬉しいものであった。できることなら応えたいと思うほどに。

 シャーペンを置きノートを閉じる。気まぐれに出席していた授業ではところどころ穴があり、復習するのはもっぱら一年生の内容だ。翼が現れてからは、翼を、延いてはサッカー部を不利にする事柄を少しでも減らすべきだろうとできるだけ授業に出ていたし、翼自身がテスト前に部員の勉強をスパルタに見てくれていたのでそれなりの出来になっている。先日の中間テストでは半分くらいの教科で平均、もしくはそれを上回る点数を取って担任の度肝を抜いたばかりだ。
 今日はもう終わりにしようと席を立ったとき、夜だからとマナーモードに設定していた携帯が振動しメールの受信を主張した。

「…?」

 はて、こんな時間に何のメールだろうか。見当もつかないまま片手で開くと、目に飛び込んできた名前に思わず固まった。

「…翼?」

 なぜ翼が、夜も更けたこんな時間に?
 私立の有名進学校に進んだ翼とは彼が卒業してからも縁が切れることがなく、今も変わらずお付き合いをしている。しかし補講や自習で忙しい翼と会うことは難しくて、柾輝が受験生なこともありここのところ会えない日が続いていた。
 何かあったのだろうか。先日テストが終了したことは告げているし、久々に会わないかとの誘いかもしれない。そうじゃなくても返信のついでにこちらからお誘いしてもいい。逸る気持ちでメールを確認してその内容に目を見開いた。

『誕生日おめでとう。プレゼントはポストに入れとくから』

 咄嗟に声を出さなかったことを褒めてほしい。
 一瞬固まったのち、柾輝は玄関に駆け出した。

「翼!」

 ポストもそっちのけで家先に飛び出した柾輝は、翼の背中を認め呼び止める。立ち止まった翼はゆっくりと焦らすように振り返りいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「わざわざ出てきたんだ?」
「あんなメール来たら飛び出すに決まってるだろ。あんたこそ、わざわざこのために来たのかよ」

 深夜に優等生様が徘徊とは、教師や誰かに見つかりでもしたら大変だろう。そう思って尋ねると、翼がひょいと肩を竦めて見せた。

「まさか。塾の閉館時間まで自習して、ゆっくり遠回りで帰れば丁度いい時間だなって思っただけだよ」

 翼が普段塾で自習などしないことを柾輝は知っている。家で行う方がよっぽど集中できると以前彼が零した言葉を柾輝が忘れているはずもなかった。
 そうでなくても“ゆっくりと”“遠回り”で帰っている時点で、たとえ塾での自習が本当だったとしても柾輝のためであることは明白であった。柾輝の頬は思わず緩む。

 ふと、暗がりに慣れた柾輝の目が赤らんだ翼の頬を捉えた。寒い時期だ。遠回りをして外気にさらされる時間も長かったのだろう。おまけにゆっくりとした足取りでは身体も温まることがなかったに違いない。

「ワリィ、寒かっただろ」

 だいたい、いくら調節して歩いてこようと零時ぴったりにつきプレゼントを投函するなど無理な話だ。多少は立ち止まってタイミングを見計らったのであろうことは想像に難くない。柾輝は着ていた上着を脱いで手渡そうとして、翼に止められて顔を上げた。

「受験生が薄着するなっての」
「このくらい平気に決まってんだろ」
「そうじゃなくて、温める方法なら他にあるだろ」

 ほら、と翼が両手を広げて見せたので、柾輝は再びフリーズする。笑う翼は頬も鼻も耳も真っ赤で、早く早くと急かされているようだった。
 敵わないなあと思う。それと同時に、可愛いなあとも。

「俺がここまで我慢してやってんだから、志望校ぜってー合格しろよな」
「はいはいわかってますよ」
「…春休みはどっか行きたい」
「おおせのままに」
「……誕生日おめでと」
「サンキュ」

 促されるままに両手を開いた柾輝の胸に、翼が勢いよく飛び込んできた。

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