さくりと立てられた包丁は、器用にも円を6等分していく。
 俺ここな、とフレーバーを指差せば、はいはいと穏やかな笑みのにじんだ声を降らせながら、円の一角がケーキ皿に分けられた。その隣のチョコレートフレーバーが、もう一枚の皿に乗せられる。

「ろうそくあるけど」
「アイス溶けちゃうだろ。大体、もうそんな歳でもないしね」
「31歳」
「うるさいよ30歳」
「まだ29だし」
「変わんないだろ」

 軽口を叩き合う様子は気安く、小気味よいテンポで紡がれる会話の合間に、残ったケーキにはラップがかけられる。「明日中くらいには全部食べなきゃだな」。言葉も共に冷凍庫へ閉じ込めた。

 今年の誕生日はアイスケーキにしようと言い出したのは翼だった。いや厳密に言えば同中の関西弁の友人の発案であったが、面白半分の言葉を真に受けすぐさま予約を取ったのは確かに翼であった。
 毎年この時期になると、柾輝のパソコンのブックマークにはレシピサイトが増える。中学時代から兄弟の夕食を用意する事もままあった柾輝に翼がバースデーケーキをゆすったのは、思い出せもしない程昔の出来事だ。まだふたりが、いわゆるお付き合いというものを始める前だったような気がする。そんな頃に誕生日にケーキを作ってよとただの後輩におねだりをした翼も、しょうがないなと形だけのため息を吐きながらただの先輩のために見事な一品をこさえた柾輝も、今にして思えば相当にわかりやすかった。わかりやすかったのに、当時は何一つ――相手の気持ちも、自分の気持ちさえも――気付くことが出来なかった。
 いつかも思い出せないような頃から定例化していた手作りの誕生日ケーキだが、今年テーブルの上へそっと持ってこられたケーキは柾輝の手ずから用意された物ではない、市販のアイスケーキである。新年会の際、ナオキが今年で31歳なのだから、サーティーワンのアイスケーキを食べたらいいと提案したのだ。その場にいた誰もが酔っていた。翼は毎年誰が自分のためにケーキを準備してくれていたかを忘れていたし、柾輝も4月になると誰のためにお菓子作りに励んでいたのかをすっかり失念していた。だから言えたのだ。言ってしまったのだ。

「いいねそれ。今年はアイスケーキにするか」

 その場で予約の電話を入れた翼を止める者はいなかったし、周りもはやし立てて翼はすっかりその気になっていた。
 その後酔いもすっかり覚めた頃に、翼も一応まずかったかなと柾輝の様子をこっそり窺ったのだが、別段気にした風でもなかったので予約取り消しの連絡を入れることはやめ、結局そのまま今年はアイスケーキに決まったのだった。

 色彩鮮やかなアイスケーキの2ピースを皿に取り分け、温かなコーヒーを隣に添える。冷たくなった口内をぬくめるようにホットにし、甘さに痺れた舌先をほぐすようにブラックで出されたそれは柾輝が今年唯一翼に用意した誕生日のための一品であった。
 例年、ケーキと一緒にそれに合う飲み物の用意まで柾輝がしてくれていた。それが今年は飲み物だけになっただけだ。さしたる問題ではない。ないはずである。

 結局立てられなかったろうそくを脇にやり、柾輝は改めて翼に向き合った。「誕生日おめでとう」。「ん、さんきゅ」。きちんと居住まいを正して放たれた言葉にこそばゆさを感じながら、翼の視線は冷えたそれに落ちる。

「うわ、もう溶け出してるし」

 慌てた様子でスプーンを手にした翼に倣い、柾輝もスプーンに手を伸ばした。翼と違い甘い物がさして得意ではない柾輝は、コーヒーで口をしめらせてゆっくり一口目を頬張っていく。冷たいアイスは温かな口の中ですぐにどろりと液体となった。
 翼は元々甘い物が好きだ。中学時代からイタリアンジェラートを好み、甘く冷たいそれを食べに行くことによく柾輝を付き合わせていた。しかし、だからといって苦い物や辛い物が苦手というわけではなく、柾輝に誘われカレー南蛮を食べに行った時はそれなりの辛さの物を注文していたし、それに付き合うことは何の苦でもなかった。
 しかし柾輝は違う。柾輝は出会った頃からあまりスイーツを好む方ではなかった。その柾輝に、自分は随分長い間、毎年のケーキ作りを強要してきた。柾輝が味見もしない料理を翼に出すはずもなく、毎年吟味に吟味を重ねた物が差し出されていることを翼は知っている。
 この時期になると、柾輝のパソコンのブックマークにはレシピサイトが増える。
 それは柾輝の愛情であった。普段はお菓子など作らぬ柾輝が、自分の誕生日のために頭を悩ませ調理をしてくれる。愛以外の何物でもないそれを受けることが心地よく、翼は毎年柾輝にバースデーケーキをねだるのをやめられなかった。

 しかしそれもそろそろ潮時かもしれないと、ひとつに結わえた髪の先が前に流れていたのを後ろにやりながら翼はひっそりと肩をすくめる。
 こうやって一度市販のケーキを挟んでしまった。柾輝も気にした様子ではなかったし、来年から緩やかに既製品へ移行していくのだろう。少々寂しいが、何も柾輝のお菓子が一生食べられなくなったわけではない。自分に殊更甘いこの男のことだ、誕生日以外にねだったって嫌な顔ひとつせずにこしらえてくれるだろうことは容易に想像がつく。
 だから来年から、手作りの誕生日ケーキはあきらめよう。
 そう密かに決心した翼に、なあ、とチョコレートフレーバーを一口含んだ柾輝が声をかけた。

「……来年は、今年の分と2つ作らせてくれよ」

 目を丸くして柾輝を見やった翼に、照れたような表情が向けられる。

「あんたがおいしそうに俺の作ったケーキ食ってんの見るの、結構気に入ってんだよ」

 毎年、今年は何を作ってやろうかと張り切っていたのだと教えられる。
 毎年、インターネットで探したレシピを見ては翼の好きな甘さに微調整する作業を気に入っていたのだと教えられる。
 毎年、翼が喜んでくれるのがとても嬉しかったのだと教えられる。

 それはそれは、自分は一体どれだけ愛されているのやら!

「……ふはっ!」

 思わず吹き出した翼に、なんだよと柾輝がばつの悪そうな顔をした。もう翼は、毎年ゆすって悪かったななんて思いはどこかに吹き飛んでいた。来年からは既製品でもいい? 手作りのバースデーケーキはあきらめる? そんなこと、いつ誰が言ったことか。少なくとも自分ではない。
 翼はたまらなくなって立ち上がると、上体を前のめりにさせて机の向こう側にいる柾輝の唇をそのまま奪った。柾輝の口内は冷たくて甘くて、チョコレートの味に酔いしれる。

「……あまい」

 離れ際、ふっと笑いながら唇を舐めてそう告げれば、柾輝が少しだけ怒ったみたいな表情をした。

「あんたなァ…」

 上機嫌の翼に何を言っても無駄と悟ったのか、文句は深いため息の中へと消えていく。ガシガシと頭を掻いて、アイス溶けるぞと低い声で唸られても、最早そんなことはどうでもいい。

 こんなに煽ってやったのだから、柾輝がすべきことはケーキにラップをかけることでも、それを冷凍庫へ行儀よく仕舞いに行くことでもない。
 とにかく今すぐ抱きかかえて、早くベッドに連れて行ってほしかった。

お姫さま今すぐに
(いくつになっても変わらない)

翼さん31歳の誕生日おめでとうございます!
(140419)