ふと夢の海から浮上した意識に、翼はそっと目蓋を開いた。
 カーテンの向こうはまだ夜の中で、ベッドサイドの小さな明かりが仄暗い室内で淡く存在を主張している。二、三度瞬かせようやく暗闇に慣れた目を動かすと、すぐ隣に横たわるはずの膨らみが見当たらなかった。

「んん……」

 水でも飲みに行っているのだろうか。荒くれ者の集まりの中にいた割には柾輝は礼儀を弁えた性格で、無暗に翼の家の中を歩き回ったりしない。今でこそ随分気安くなったが、少し前までは何に触れるにも逐一確認をとるほどだった。何度も泊まりに来ているし勝手知ったる他人の家だろうに、浴室やキッチン――さらに包丁や調味料など――を借りるたび毎度律義に声をかける姿に、好きに使いなって言ってるだろと返したのは一度や二度ではない。
 昨晩はシングルベッドに二人身を寄せ合って眠りに就いたというのに、今はぽっかりと広がる空間が物寂しくて、俺が起きた時にはいろよな、などと理不尽極まりないことを思わず考えてしまったのは起きぬけでまだ意識が曖昧だからだろうか。どうせなら彼がいる時に起きたかった、と殊勝な考えが過ぎったのは間違いなく寝起きなせいだ。そうじゃなければ自分がそんな健気なことを思うわけがない。
 一人で勝手に浮かんだ考えに一人で勝手に言い訳をし、なんだか余計に恥ずかしくなって枕に顔を沈めていると、ふと潜めた足音が近づいてきていることに気づく。
 両親の里帰りを理由に招いたこの家に、翼以外に足音を立てられる存在など一人しかいない。隣の男がベッドへ戻ってくるようだ。水かと思ったが、足音はキッチンではなく洗面所の方から聞こえた。
 あ、と思う。久しぶりに誰にも邪魔されず朝まで二人きりで過ごせるとあって、柾輝も翼もたがが外れたかのように長い時間求め合った。何度目かの吐精のあとうつらうつらとまどろみ出した翼に、先程までの欲の雰囲気をやや潜めた柾輝――まだ足りなかったのかもしれない。翼としては、自分が満足したのを見て自らの欲求にブレーキをかけようとする柾輝がくすぐったくもあり、もっとがっつかれても構わないとじれったくもあった――が「風呂どうする」と尋ねたのを思い出す。
 ――いい。いらない。
 眠りのふちに立っていたあの時は何も思わなかったが、今振り返れば一体何がいいのかわからない。身体中汗や体液でべたべただし、中も外も清らかにしたいのは当然だった。放っておけば腹を壊すのも風邪を引くのも翼なのである。そんな必要不可欠なことすらするのが億劫で、ふわふわと夢の中へ意識の半分を持って行かれた状態で翼は柾輝の返答を耳にした。彼は確か、了解と言っていなかったか。少し笑みを含んだ声で、仕方ないなと言わんばかりの愛しさをにじませた手つきで頭を撫でられ、翼は抗うことなく眠りへ落ちた。そうして――そうして? 翼はぶわりと顔が熱くなるのを感じた。夕食後、風呂から上がってから柾輝と共にベッドへ沈むまでの間しか身に着けていなかった寝間着が、今はしっかりと翼の身体を包んでいる。肌触りのいいそれがとても心地よいのは、翼の肌がサラサラとしているからであって、言い換えれば汗や体液などでべたべたしていないからであって、それはつまり、柾輝が。
 翼はぼふんと布団を被るとじたばたと足をばたつかせたい衝動を一生懸命に堪えた。もぞりと膝をすり合わせても、後ろから余計なものが滴り落ちる感覚はない。タオルかシャワーか、どちらで清められていても恥ずかしいのは変わりないが、後者だったことがはっきりとしまた羞恥に襲われる。自分が眠っている間に、柾輝に抱えられて、風呂で、明るいところで、がっつり見られた。当然身体を洗ってもらったのだろうし、中を掻き出してくれたのだろうし、寝間着を着ているのだから、拭いてもらったのだろう。そんなことまで、させたことがなかった。当たり前だ。恥ずかしくて堪らない。
 布団に潜って、おまけに全身を羞恥で熱くさせた翼は、すぐに息苦しさに布団から顔を出した。熱がこもってしょうがない。それと同時にギィと小さな音を立てて翼の部屋のドアが開かれて、翼は慌てて目蓋を閉じた。柾輝が帰ってきたようだ。

 ***

 小さな寝息が聞こえる。翼、と名を呼ぼうとして、結局口から零れ出たのは潜めた息づかいだけだった。
 さんざがっついて抱きつぶした身体は、見るからに疲れ切っていた。そんなところに「風呂どうする」と尋ねたのは、何も今入るかあとで入るかの確認がしたかったわけではない。翼が自ら風呂へ行けるのか、それとも自分が連れて行くかを問うたつもりだった。受け取り方を翼に任せるような聞き方をあえてした自覚はあったし、まどろみのふちに佇む翼にこちらの真意を汲み取った判断が下せるとも思っていない。案の定、半分意識を手放しながら寄越された返事に――そんな状態でも律儀に応えようとするのだから、全く彼には敵わない――柾輝は笑みを深めて了解と返した。元よりそのつもりだった。無理を強いた身体をこれ以上疲れさせるわけにはいかない。翼はゆっくりと休んでくれて構わない。あとは自分が引き受ければいいだけだ。否、引き受けさせてほしいのだ。お願いして素直に聞いてくれるのならそうしていた。翼の身体を綺麗に洗い、好き勝手掻き抱いた身体を、翼を、労わらせてほしいと、柾輝が望んでいた。
 勝手知ったる他人の家とばかりに浴室を無断で使わせてもらい、翼への施しを存分にし、ベッドへ彼を寝かせたのちに浴槽を綺麗に片付けて戻ってくれば、そこに待っていたのは先程と変わらずシーツに横たわる翼の姿だった。布団を握りしめ、髪の毛がほんの少し乱れている。呼吸の浅さが意識的だった。起きている、と直感的に思う。声をかけようとして、眠っているふりをしていることに気付いた。それなら気付かなかったふりを装う方がいいだろう。翼が寝たふりがしたいのならば、それを妨げることは柾輝のしたいことではない。
 起きている相手を起こさないように、けれども相手に自分の存在が伝わるように歩を進めてベッドへ上がるも、翼はまだ瞳を隠したままだった。そっと手を伸ばして前髪に触れる。ぴくりと翼の身体が揺れた。乱れを撫でるように直し、するりと頬に滑らせると、今度は反応が直に伝わってくる。頬の熱も、緊張からのわずかな震えも、柾輝に気付かれまいと必死に平然を保とうとしていた。いじらしさが募る。
 翼、と口の中だけで名前を転がして、柾輝はその唇にキスを落とした。今度こそ揺らいだ身体は、寝返りということで誤魔化したつもりなのだろう。上がった体温と早まった心音には、とうの昔に気付いていたけど。

 おやすみと、これだけはきちんと声にして、柾輝は翼の隣で目を閉じた。もう二時間もすれば朝が来るだろうか。翼は、五時の秘密を抱えてベッドで丸くなっている。寝たふりをして、眠った自分を労わる柾輝を観察した秘密だ。翼は気づいていないと思っている。気付かれていないと思っている。
 柾輝は、翼が寝たふりに気付いていないと思っていることを知っている。知っていて指摘しなかった。秘密にしたのだ。
 ふたりは秘密を抱えて寄り添っていた。
A.M.5:00の秘密。


柾輝さん30歳のお誕生日おめでとうございます。
(141123)