顔を上げれば思いの外暗い辺りに驚いた。
首を回して時計を見やれば、なるほどもうすぐ8時を超える。電気をつけるのも忘れていた。明かり、と口だけを動かしリモコン型のスイッチを手探りで探し当て、ボタンを押す前に足元にうずくまる存在を見て思いとどまった。
先程まで背中を叩きあやしていた小さな妹は、今ようやく眠りの淵へと落ちたところである。

「…寝ましたか?」

開けっ放しの扉から冷えた麦茶を持って現れた日吉は、視線を落とすと、ふっと顔を綻ばせる。
本当は、幼児を寝せるには中途半端な時間なのだけど。眠りの病にかかっている芥川家では、眠たがるようならこのくらいの時間から寝かしつけることも度々あった。

「うん、ぐっすり。ごめんね、子守に付き合わせちゃって」
「別に平気ですよ」

外気に汗を噴くグラスの片方を慈郎に渡し、日吉が自分の分に口をつける。
子供特有の柔らかい髪の毛を、一瞬躊躇した後に撫ぜた。

約束をしたわけではなかったのだけど、日吉は何となく今週末の祭は慈郎と一緒に行くのだと思っていた。
だから週末――つまりは本日――急に家で妹の面倒を見なくてはいけなくなり行けなくなったと慈郎に謝られたとき、日吉は思わず呆けた。呆けたが、深く落胆したわけではなかった。
暗黙の了解として慈郎も日吉と祭に赴くつもりだったのだとわかり、明確に約束をしたわけでもないのに行けなくなったことを謝罪する慈郎に、じんわりと胸の奥がくすぐられる。

祭に行けずともよかったが一緒に過ごせないのは少し寂しく感じて、日吉は思わず口を開いた。

「俺も、家に行ってもいいですか」



「…でも、本当によかったの?」

眩しさに子供が目を覚ましてしまうやも知れぬと、暗がりのまま慈郎が日吉に言葉を投げる。
せっかくの祭だ。楽しむことができずに残念に思っているのではないかと慈郎は不安になる。

「慈郎さんはよかったんですか?俺だけ祭に行っても」
「……やだ」

他の誰と行くと言われても、あっさり行かせてやれそうにない。
そんな慈郎の胸の内を読み日吉がそら見たことかと笑う。

「別に人生最後の祭なわけでもないですし。秋祭りには――…」

そこで日吉はハッとして口をつぐんだ。慈郎がきょとんと瞬いて、日吉の言いかけた言葉を辿り目を輝かせる。

「秋祭りは、絶対一緒に行こうね」
「……」

言えなかった日吉の代わりに慈郎がその先の言葉を口にした。
慈郎が、へへ、と嬉しそうに笑うので、日吉は苦虫を噛み潰したような表情で押し黙る。
日吉が当たり前のように秋祭りも慈郎と共に出向くつもりだったのだと零したことが慈郎は嬉しかった。
口を真一文字に結びじっとりとした目で睨めつけられても、暗闇に慣れた目がその赤い頬を見逃すはずがない。

失言したと言わんばかりの顔をする日吉を可愛く思いながらずっと眺めていてもよかったが、不意に外から聞こえた音に話題をそちらに向けた。

「あ、花火上がったね」

足元の少女を起こさぬように立ち上がりベランダへ寄ると日吉も後に続く。その顔はまだ赤みが指しているが、ひとまずは話がそれたことに安堵しているようでこっそり笑った。
ねえひよし、と視線は空に向けたまま慈郎が口を開く。
なんですかとそれに答えた日吉の目もまた花火を捉えたまま慈郎を見ることはなかった。

大きな音を立てながら、花火が弾ける。

「秋祭りは、浴衣で行こっか」
「あんた着れるんですか?」
「日吉は?」
「着れますよ。当たり前でしょう」
「ん、じゃあ大丈夫だCー!」

それは、俺が着せること前提で“大丈夫”なのか。
呆れたふりで息をつく。
こっそりと覗き見た慈郎の横顔がニコニコと楽しそうだったので、釣られて笑って。

視線を感じ不思議そうにこちらを見た慈郎に、日吉は慌てて花火に向き直った。

わずかに甘い
(ソーダアイス、冷えたスイカ、夏の味覚はわずかに甘い)


(120911)