部屋の片付けを手伝ってほしい。
 突然のお願いに日吉はぱちりと瞬きをして、それから盛大に顔をしかめた。果たして、それを頼まれることで自分に何のメリットがあるのか。否定の意を滲ませながらの問いに、夏休みだから片付けようと思って、と彼はまったく的外れな返答を寄越した。そうじゃない。そうではなくて。日吉だって、相手が長い休みを利用して部屋の荷物整理をすることに文句があるわけではない。むしろ、いい機会だから大いにしてくれて構わない。日々の中ではなかなか手入れの行き届かない箇所もあるだろう。そのような部分は長期休暇に片付けてしまうに限る、とは日吉も賛成だ。――ただ、俺を巻き込まないでくれ。
 そんな日吉の懇願むなしく、にっこりと人懐こい笑みを浮かべた彼の人は、その笑顔で叶えてもらえなかった要望などないのだろう。明日から着手する旨と、日吉に何時頃に来てほしいかを伝えると、一層愛らしい笑顔を作った。

「おねがい、ひよし」


(130810)
 結局、言い渡された5分前には慈郎の家の玄関先まで来ていた日吉を一体誰が責められようか。もしもここで、例えばクラスメイトなんかに出会って、ただの部活の先輩の、それも部活時間外の個人的な用件にまで応えるなんて律儀な奴、と呆れとも感心ともとれる言葉を投げ掛けられたら、日吉は一度そいつを殴ったのちに足早に帰路に着いていただろう。だが実際にはそんな言葉をかける輩はいなかったので、日吉は仕方なしにインターホンを鳴らした。
 いらっしゃーい、とのんきな風に日吉を迎え入れた慈郎は目の前の人物が来ないことなど考えてもいなかったようで、当たり前のように部屋へ招かれる。まっすぐと自室に案内されたが、横切ったリビングに人影が一切見当たらないのはすぐに把握できた。母さんは店番行ってるCーとすかさず声がかかったので、日吉はわずかに入っていた肩の力を抜く。
 慈郎がすでに片付けを始めていた……などということがあるわけもなく、よいしょ、と掛け声をあげた。

「日吉も来たし、頑張ろうかなあ」

 気合いを入れるように気合いの抜けた声で呟くと、慈郎はのろのろと重い腰を持ち上げる。ぜひそうしてくれと日吉は考えた。自分だけ本当に手伝うつもりで来ただなんて、茶化すクラスメイトがいなくても踵を返したくなるじゃないか。


(130810)
「日吉がいらないって思った物は捨ててくれてEーから」

 まるでなんでもないことのように慈郎から告げられた日吉は、は、と目を丸くする。それは、あんまりじゃないか。日吉に判断基準を任せすぎではないだろうか。

「…いいんですか?」
「Eーよ」
「そんなこと言ったら、この部屋から物なくなりますよ」

 軽く見渡しただけでも日吉の目から必要に見える物は、この部屋にはあまり多くない。勉強机とベッドは要るだろうが、その上に散らかる教科書ノート、筆記具を除けば、日吉は残りの全てをおおよそ“いらない”と思った。
 そのくらい、日吉は自分の基準が厳しいことを自覚していた。あとからあれは取っておく物だったのにと拗ねられても困る。もう少し具体的な選別基準を設けるべきだと意見したが、Eーってば、とぷっくり頬を膨らまされてはそれ以上何も言えなかった。

「だいじょーぶだよ」

 何が大丈夫なのかてんで見当もつかなかったが、そう言われてしまっては諦めざるを得ない。
 自信満々の慈郎にもう一度だけ、知りませんからねと忠告をして、日吉はここに平積みされている荷物をすべて捨てることになったらどうしよう、と少し不安を感じながら、任された一角に手を伸ばした。


(130810)
 走り書きすぎて読めないメモ、くしゃくしゃになったプリント、同じ色の膨大な量のボールペン。明らかな不要物は日吉もためらいなく切り捨てられたが、ここから先はそうもいかない。
 まず日吉が手にとったのはヨットの置物だった。表面にはうっすらと埃が張っていて、放置されていた時間を窺わせる。半分ほど塵に覆われていない部分があるのは、上に投げ捨てられていたTシャツがカバーの役割を果たしていたからだった。そちらは洗濯かごに放り込む。
 はて、これはなんだろうと日吉は首を傾げた。何と問われればヨットの置物ではあるが、そうではなくて、“これの付加価値”はなんだろう。

「慈郎さん」

 少し離れた場所、本棚に手をつけている慈郎に呼びかける。週刊誌の山に囲まれる慈郎を見て、あちらこそ自分が片付けるべきだったのではないかと思った。あれは慈郎には誘惑が強すぎる。しかし、どうか慈郎さんが1ページも捲ってしまいませんようにという日吉の祈りが通じたのか、慈郎は思いのほか早いペースでそこを整理していた。

「んー、なにー?」
「ヨットはいりますか?」
「ヨット?」

 慈郎が視線を向けたので見やすいように持ち上げる。わずかに目を細めて口の端を歪めた。

「わ、懐かCー」
「どうしますか?」
「日吉に任せる〜」

 言うなり慈郎は再び視線を雑誌たちに戻してしまう。何が懐かしいのかを語る気はないようだ。それでは日吉も判断がつかない。任せるくらいなら必要ないのだろうか。ふと手慰みに触れていたヨットをひっくり返したら、そこには幼い字で「じろう」「りょう」「がくと」と記されていた。

「……」

 これはいる物だ。間違いなく。
 日吉は積もった埃を布巾で丁寧に拭い取り、埋もれないようそっと棚に飾った。


(130810)
 しばらく無心で片付けていた日吉だが、ふと手紙が落ちていることを見留め手を止めた。封の切られていないそれは日吉もいくつか貰ったことのある物で間違いなさそうだが、これは一体。
 慈郎は基本的にラブレターの類を受け取らない。周りのイメージとは裏腹に――もしくは、テニスをしているとき以外を見ている人間であれば想像通りに――慈郎は基本的に淡泊な性格をしている。まず寝ているからろくに相手をしないし、興味の対象はとことん偏っている。テニスだって、ワクワクする試合じゃないと対戦相手のことも覚えていない。慈郎の興味はもっぱら跡部と丸井とムースポッキーと羊……と、自惚れのようで恥ずかしいが、恐らくは自分に注がれていた。
 だから日吉は今、この手紙を少しばかり意外に感じている。慈郎の部屋から出てきたことが何より不可思議であった。このようなものは慈郎のことだから、まず受け取ることを面倒がるか、仮に受け取ったとしても次は持って帰ることを疎み、教室の机の引き出しの奥でくしゃくしゃに丸まってしまっているのが常なのだ。

「慈郎さん、手紙が出てきましたけど」

 慈郎が目線を上げ、日吉の手中にある封筒に目を留めた。「開いてませんよこれ」少しばかり非難めいた色がにじんでしまった気がする。慈郎がなあにそれとばかりにコトリと首を横に倒した。「知らない」本当に心当たりがないような雰囲気だ。「どっか紛れてたのかな」他人事のように零してから、一度受け取ると何の躊躇もなしにビリビリと開封した。雑に中身に目を通した後、すぐに日吉に返される。

「え、どうするんですか」
「日吉の好きにしてEーよ」

 いいのだろうか。日吉はちらりと手紙に視線を落とす。読むつもりなど毛頭なかったが、お返事待ってますという健気な一文が目に入った。
 かわいそうにと思いながら、日吉は手紙をいらない物に仕分けた。日付は2年前だった。


(130811)
 あとの物は、おおよそ日吉にも見当のつくものだった。羊のぬいぐるみはいる物だろうし、部屋のあちこちにあった目覚まし時計も、効果があるのかは別としてやはりいる物なのであろうと日吉は判断した。しかし、慈郎は毎朝、これだけの目覚まし時計を一度に使って起きているのか。その割にはなぜ朝練に間に合わないのだろうか。目覚まし時計のスイッチの部分にテニスボールの跡を見つけ溜め息する。なるほど、これでは確かに起きられまい。室内でボールを当てて電源を切ろうとするなんて、寝ぼけていなければするわけがなかった。
 慈郎の担当していた箇所も無事に完了しただろうかと首を回してそちらを見やると、あまり物は減っていなかったが綺麗に並べて仕舞うことはできたようだ。1巻から順に羅列された漫画は日吉も散々勧められたシリーズである。気に入っているようだから、フィギュアは埃をはらうだけにしている物に分別した。
 慈郎は日吉の担当範囲に目を向けると眩げに目を細める。そうして、日吉はやっぱり俺に甘いCー、と呟きを落としたのだけど、当人には聞こえなかったようで――西日も差し込む夕暮れに喧騒などありもしないのに?――日吉は何の反応も返すことなく、慈郎の視線を辿ってただじっと片付けの跡を見つめていた。


(130815)
「お疲れさまー、かんぱーい」

 ファーストフード店のボックス席、ニコニコと笑んでいる慈郎につられて日吉も飲み物を持ち上げた。日吉のドリンクに自分のカップを軽く打ち付けると、慈郎はさっそくストローをくわえる。
 手伝ってくれたお礼と称して慈郎に連れて来られたのは最寄りのハンバーガーショップで、セットを2つ頼んだ慈郎は片方を日吉に寄越した。どうやらこれがお礼らしい。

「日吉さ、やる前は全部なくなるとか言ってたけど、結構いろいろ残してくれたよね」

 慈郎にポテトを食べながら指摘され、日吉はそれはそうでしょうと眉をひそめそうになる。あれがすべて日吉の持ち物だったら、間違いなく全部捨てていた。しかし実際は慈郎の物だ。そうなると判断基準だって慈郎に合わせるのが当然である。
 しかし、俺は日吉に任せるって言ったのに? と真ん丸な瞳で覗き込まれると言葉に詰まる。確かに任せるとは言われた。だからこそ日吉は、自分の基準で慈郎ならこれは残すだろうこれは捨てるだろうと決断したのだ。それが、何か間違っていただろうか。

「いけませんでしたか」

 けれどもそれなら、あらかじめボーダーを定めなかった慈郎に非がある。日吉はあくまで手伝いなのだから、してほしい行動があったのならそれを明示してくれなくては困る。咎めるような眼差しを送るも、んー全然、と慈郎はあっさりかわした。

「ただ、やっぱり日吉は俺に甘いなーって思っただけ」

 先程も言われた言葉に今度こそ眉根を寄せた。言いたいことがわからない。だからあ、と慈郎が唇を尖らせた。伝わらなくて焦れたようだった。
 慈郎の紡いだ言葉に、日吉はかっと頬を熱くする。

「日吉の好きな基準で捨てようと思ったら、俺の基準になったんでしょ?」

 いや、それは、別にそうじゃなくて。
 今日1日俺のこといっぱい考えてくれた? と慈郎は可愛らしく首を傾けた。

 ――困った。

 うまく否定の句が見つけられない。


(130815)