自分の誕生日に一体何をやってるんだ、と日吉は空を仰いでひとりごちた。
 高等部の見慣れぬ校門は日吉の居心地を悪くする一方で、何度も帰ってしまおうかと自問する。風はもちろん腰掛けにしている花壇の煉瓦も冷たく、先程から日吉の身体の熱を奪っていた。
 本当はこんなことをしている場合じゃない、と思う。
 いくら中高一貫校とはいえ、受験生がいつまでもぼんやりと寒空の下立ち尽くすなんて、風邪でも引いたらどうするというのだ。無論そんなに軟弱なつもりはないが、用心に越したことはない。いやそれよりも、ぼうっと呆けているこの時間が何よりもったいなかった。ここで所在なさげにしている間に一体いくつの英単語を覚えることができただろうかを考えると、ため息が漏れるのも仕方がないだろう。はあ、と吐いた息が白かった。
 氷帝学園は広い。中等部と高等部は建物こそ同じ敷地内にあるものの、登下校門や体育館、講堂、授業棟など設備はすべて別に作られている。
 だから日吉は高等部を知らない。
 同じ氷帝なのに、まるで違う学校に来たみたいだった。高等部の基準服で溢れる帰宅する生徒の波の中では、中等部のそれに身を包む日吉はどうしても浮いてしまう。そうじゃなくとも“あの”跡部と同じ部活でレギュラーで、彼の後を継いで部長になった日吉だ。今年中等部から進学した生徒のそのほとんどが自分のことを知っているのである。要するに、注目を集めていた。悪目立ち、と言葉を変えてもいいくらいに。
 女生徒からの何回目かの誘いを断り、日吉はそっと息をつく。年上で、しかも女子だ。話すのも断るのも気を使うし苦手に決まっている。
 ――誰を待ってるの? 呼んできてあげようか? ひとりじゃ退屈でしょ、一緒に待ってあげる。
 誰とは言いがたかったし呼ばれるのも困った。一緒に待たれるのだってそれはそれで困る。
 すっかり温くなった缶コーヒーはもうカイロの役目を果たさないというのに、日吉はそれをしつこく手のひらで転がした。中等部の自動販売機で買ってきた物だ。ここにいるのはこれを飲み終えるまでの時間だけと決めていた。
 日吉は、誰とも待ち合わせなどしていなかった。
 していないのに、慈郎を待っていた。



 しいて言えば、誕生日だったからだと思う。
 ふと何気なく、日吉は高等部に行こうかなんて思いついた。いつも大した用もなく中等部に遊びに来る慈郎を見て、自分から訪ねてもいいのではと考えたのだ。
 卒業式を迎えるまでは、慈郎が卒業してしまえば関係が途切れてしまう気がして不安に感じていたというのに。実際は何も変わらず、慈郎は何かと理由をつけては頻繁に部室に訪れるし、休日は一緒にテニスを打ち行ったりするしで、日吉が危惧していたようなことは何もなかった。
 何もなかったが、ふとした拍子に寂しさが顔を出した。
 それはたとえば校内を見渡して明るい髪色を見つけられなくなったときだったり、部活中どこかで寝ている誰かを探しに行かなくてもレギュラーが全員整列したときだったり、日常のあちこちに散らばった「いつもはこうだった」がそうではないと思い知らされるたびに、日吉の胸はきゅうと締め付けられるように痛む。恐れていたことは何もなかったのに、予想だにしなかった部分で慈郎の不在をまざまざと感じさせられた。
 だから限界だったのかもしれない。
 だって誕生日だったのだ。校内をいくら見渡せど、ぴょんぴょん跳ねさせた小金に輝く髪の毛はもういない。昼寝に丁度よさそうな木陰を見かけるとついつい部活中探しに来る場所リストへと追加してしまうのに、そもそも探しに行く用事がなかった。そうして冷たい風が日吉の身体を吹き付けたとき、ふと昔のことが思い出される。

――『ね、寄り道しよっか。買い食いして食べる肉まんの味は格別だCー』

 にししと、悪いことをしているとばかりに笑うあの顔が、日吉は何だか無性に恋しくなったのだ。



「――日吉?!」

 少し俯いてナーバスな気分になっていたかもしれない。
 自分を呼ぶ声に気付き、日吉はハッと顔を上げた。ぼんやりと視線を落としていた手元のコーヒー缶を持ち直し、声の主の方へ目を向ける。驚いた顔をした慈郎は手に携帯を握りしめたままバタバタと走り寄ってきた。
 先程もずいぶん大きい声で名前を呼ばれたが、相当びっくりしたのだろうか。真ん丸な目がさらに丸くなっている。自分がここにいることがそんなに意外だったのか。

「どうしたの?!」

 傍らへやってきた慈郎に花壇から腰を上げかけると、ふわりと頬を包むように手のひらが宛がわれた。「冷えてる」咎めるような声音につい、コーヒー一本分しか待つ気がなかったことを告げようとする。その前に自分が缶を開けてすらいなかったことに気付き閉口した。
 最早手のひらよりも冷たい缶を取り上げられ、代わりに慈郎の手が日吉に温もりを与える。どこもかしこも冷たいと騒ぐ慈郎にホッとした心地になった。胸がぽかぽかと温かい。

「あったまらなきゃ。風邪引いたら大変でしょ」

 ぎゅっと日吉の手を握りしめたまま呟いた慈郎がそのまま歩き出したので、腕を引かれそれに続いた日吉は、きゅ、と握り返してその背中にリクエストをする。

「慈郎さん」
「んー?」
「肉まん奢って下さい。……誕生日なんで」

 パッと振り向いた慈郎が先程自分を見つけたときより一層驚愕の表情を浮かべていたものだから日吉の方こそ驚いた。図々しいことをお願いしただろうか。高等部に押しかけて、予定も聞かずに勝手に慈郎を待って。どれもこれも“誕生日だから”と自分に言い訳を重ねてきた。しかし受験生の自分を気づかって暖を取る方法を考えていた慈郎に奢りをお願いするのはあんまりだったかもしれない、と誕生日の魔法の効力が切れそうになったとき、慈郎がずるずるとしゃがみ込む。

「もー、日吉、もー…」
「慈郎さん…?」

 なんだ一体どうした。
 外じゃなかったら抱きしめてた、とぶつぶつ呟いている慈郎の言葉を聞き取ろうと身をかがめた日吉は、そのままぐいと引っ張られ前のめりになる。一瞬だけ唇に何かが触れた気がしてカッと頬が熱を持った。

――“外じゃなかったら”なんて言ったくせに、何をしているんだ! この人は!

 文句を言う前にずいと目の前に携帯の画面が差し出される。

「ずるい、ひよし」

 俺、一生懸命会いに行く口実考えてたのに、と唇を尖らせる慈郎の携帯画面はメール作成途中で止まっていた。件名には「誕生日おめでと!」。中身には今から部室に行ってもいいかというお尋ねと、コンビニへのお誘いの文章が収まっている。「肉まん奢るから」という言葉が浮いて見えた。
 会いに行くつもりだったのだと慈郎が言う。まさか日吉の方から来てくれるとは思わなかったけど、と。

「…たんじょーび、おめでと」

 投げ寄越された祝いの言葉と携帯の画面に映し出された文字に日吉は「…はい」としか答えることができなかった。自分の顔色を隠すことで精一杯だったのだ。
 精一杯だったから、慈郎の嬉しそうに紅潮する頬を見る余裕など、日吉にはまったく残っていなかったのである。

きみだって!
(会いたくなるし、照れるし、好きだし!)

日吉お誕生日おめでとう!!
(131205)