「…チョコ、いりますか」

 何気なさを装おうとし反って力が入ってしまったのだろう、わずかに眉間にしわが寄っているのが確認できた。
 日誌の上をのろのろと滑らせていたペンが止まる。慈郎が白紙を埋め始めてから20分が経過していた。

「…チョコ?」

 案外早かったかもしれない、と慈郎は考える。これ以上書くこともない日誌と向き合うことも難しかったため、あと10分で駄目だったら帰りにどこか寄り道していこうと思っていたところだ。
 チョコ、と告げられた言葉を反芻する。言いづらそうにしていた様子と相俟って、慈郎はすぐにピンときた。

「あ! バレンタイン?!」
「声が大きい!」

 立ち上がって身を乗り出した慈郎に、鋭い眼差しが一対向けられる。否定の言葉はなく、照れ隠しに発された苦言であることは容易にわかったため慈郎の心が傷つくことはなかった。むしろようやく日吉の話したかった内容に見当をつけられてほっとしていた。
 “今日日直だから待ってて”とお願いした慈郎に、日吉は仕方ないですねとため息しながらも了解した。その時点でもうおかしいのだ。慈郎は日吉が今朝から何か言いたげであったことに気づいていた。本当ならば帰路を共にしながら聞き出してやりたかったところだが、日直の放課後の雑務を考えればそれは敵わないことである。
 意外に思われるかもしれないが、慈郎は普段であれば、こんな風に日吉の時間を束縛するようなわがままはごねない。日吉が自分にくれる以上の時間を求める行為には、何かしらの理由が必要だと慈郎は考えていた。その理由は出来る限り彼のためになるものであるべきだとも。だから、一緒に帰ろうとか寄り道をしたいだとかではなく“待ってて”と伝えられた慈郎の言葉はそれはそれは珍しかった。
 しかし、普段だったら頼まないようなお願いをした慈郎に対して、日吉は違和感を思う余裕もなかったようだ。いよいよ切羽詰まっているなと感じた。仕方ないですねと吐かれたため息は、慈郎には最早安堵の息にしか見えないくらいに、日吉は一人で焦れていた。
 何かあっただろうかと心配に思ったが、その実十中八九自分に関することだと直感していたので、慈郎はなるべく彼と一緒にいることにした。話を切り出しやすいようにと常よりくっつく様は宍戸に「うっとうしい」と言われてしまったが――そういう宍戸こそ常にくっついている大型犬をどうにかするべきではないか!――日吉はやはりいつもより近い距離にいる慈郎の様子に気づくことはなかった。
 日吉は悩み出すと案外視野が狭くなる。慈郎は、それを日吉自身は知らないだろうと考えていた。

 さて、日吉の悩みの種はわかった。たったひとことだが、零された言葉で全て理解した。恐らく日吉は、目前のバレンタインをどう過ごすべきか考えあぐねていたのだ。恋人同士のバレンタインとは、なるほど確かに甘やかな一時が一般的なのかもしれない。だけどそこは自分と日吉だ。男同士でバレンタインを男女間の恋人のイベントのように扱うべきか。その点で日吉は戸惑ったのだろう。ここのところ一緒にいても気もそぞろになっていた理由はこれだったのだ。
 わかったところで慈郎はさらに思考を巡らせる。日吉の問い掛けは“チョコ、いりますか”だ。いると答えれば、日吉は恐らくくれるのだろう。手作りがいいなんてわがままを云ってみても、何だかんだと文句を連ねながら用意してくれることは想像に難くない。欲しいか欲しくないかで問われれば、それはもう慈郎だって間違いなく欲しかった。
 だが、少し日吉側に立って考えてみると話は変わる。この時期に、男が自らチョコレートを買うことはいささか度胸が試される行為だ。周りの女性らはせいぜい「家族や彼女のお使いかな」くらいにしか思わないとしても、自意識過剰だと云われても気になるものは気になるのである。さらに手作りなんてお願いした日には、日吉はキッチンに立たねばならなくなる。家族に気づかれずにチョコレートを作るなど、果たしてそう簡単に出来るものだろうか。否、まず無理である。そうなると「チョコレートを作って」などと気軽に云えるものではない。
 いっそいらないと云ってしまえば全て丸く収まるのかもしれない。しかし慈郎もやっぱり欲しいものは欲しいし、日吉だって尋ねるくらいなのだからくれる意思はあるのだろう。それなら貰ってうまく収まる方がいい。

「んー……じゃあ今から一緒買いに行こ!」
「は?」
「交換すんの! 俺も日吉にあげちゃうCー!」

 そうだ、それがいい。
 慈郎の提案に日吉は目を丸くした。本当に、渡す方しか思い至らなかったのだろうか。日吉は慈郎がバレンタインを楽しみにチョコレートを期待しているかもしれないと考えはしても、よもや慈郎が自分に対してバレンタインをするとは思わなかったのだろう。目を白黒させてこちらを見やる日吉に対して、慈郎はご機嫌だった。
 いくらふたりだろうと女性ばかりのバレンタイン特設コーナーに男子中学生がいては浮くのは目に見えている。だがそこは自分がうまく立ち回ればいいだけだ。変に気後れを見せるだろう日吉が悪目立ちしないよう、自分が少しばかりオーバーに甘い物が好きな振りをしてもいい。堂々としていた方が反って注目されないこともある。
 これから一緒にチョコレートを買いに行く。ここのところ日吉を悩ませていた件も解決するし、何より日吉とデートに繰り出せることに慈郎は心を踊らせた。日吉は、それで本当にいいのだろうかという表情を浮かべている。それで本当に慈郎が喜ぶのかと思案している。そうやって日吉が慈郎のことを思いやってくれるだけで喜びに満ちるというのに、日吉はそういう心に疎い。

「ね、ひよし。今から、だめ?」

慈郎は、日吉がため息を吐きながらも首を横に振らないことを知っていた。

囲うようにして生きる。
(君のこと僕は案外知っているでしょう)

意外と日吉のこと考えて振る舞ってる慈郎っていいじゃないですかと
ホワイトデーにすら間に合わなかったけどハッピーバレンタイン
(140318)