小さな物音を意識の端で拾い、慈郎は夢のふちから部室へゆっくりと帰還した。
 机に突っ伏して枕にしていた腕にわずかな痺れを感じる。拳を握っては離してをくり返してみると、その拍子にずる、と肩からブレザーがずれた。肌寒さは感じていなかったが、誰かがかけてくれたらしい。とすると――慈郎はブレザーの持ち主にすぐに思い当たった。自分にとびきり甘い人物など、この部にそう何人もいない。
 伏せた体勢のまま視線だけでブレザーの持ち主を探すと、慈郎の予想通りの人物がやや離れたところで何やらごそごそと動いていた。ロッカーの前でもパソコンの前でもない場所で一体何をしているんだろうと考えたのは一瞬で、すぐに先程そこで自分が盛大に鞄の中身をぶちまけていたことを思い出す。あ、そのままだった。ペンケースと課題のプリントを探すのにあれこれと鞄から中身を取り出して放置していたのをすっかり忘れていた。そのお目当ての物も今、自分の下敷きになっているのだが。
 慈郎が久方ぶりに部室を訪れたのは日吉を――この肩のブレザーの持ち主を――待つためであった。今日一緒に帰ろうと約束を取り付けた意味が正しく通じたのだろう、目線をわずかにそらしながら返った了承には照れを多分に含ませた棘があって、慈郎の胸をくすぐった。つんけんした物言いは初めて話す人には冷たく響くのだろうが、その真意が汲めるようになってしまえば慈しむのは簡単だ。図書室で時間を潰すなんて出来ないでしょうとか、教室で寝てたら掃除当番の人の邪魔になるだろうからとか、色々と理由をつけて部室で待つことを提案したのも、慈郎が来る頃にはすっかり温まっていた部室も、3年生が引退してからはすっかり置き物と化していたソファにいつも慈郎が使っていたブランケットとクッションが用意されていたのも、すべては慈郎のためだった。
 目は口ほどに物を言うと言うが、日吉はまさにそうだ。軽口の応酬よりもわずかに染まった目元を見た方がよっぽど素直だし、視線に感情が露骨に表れるので理解するのはそう難くはなかった。短気な岳人や言葉の方を真に受けやすい鳳などは慣れるまで時間がかかったようだが、慈郎は他人の感情に機敏な質だ。だからすぐに気づいた。日吉は自分に甘い。こんなに自分を甘やかす人間など、部には跡部と日吉くらいなものだった。
 まだ日吉が準レギュラーだった頃、跡部は様々な人間に校内で昼寝している自分を探しに行かせていた。跡部が自ら探しに来ることもあれば、準レギュラーや1年生を寄越すこともあったその探索で、本当に見つけてくるのは日吉くらいだったことを彼は知らないだろう。大抵は探し切れないのだ。慈郎だって見つかれば練習に連れて行かれることがわかっているのだから、そう易々と発見される場所になど身を構えやしない。だから多くの部員が慈郎を見つけることなく諦めるのは当然のことだった。自分の練習時間もあるのだから、他人にそんなに時間を割いてはいられない。
 けれども日吉は違った。毎度嫌そうな、迷惑そうな顔をしながらも必ず慈郎を見つけ出す。頼まれたことを途中で放り出すことが気に食わないというその性格は生粋の負けず嫌いだ。日吉が探しに行くと見つかる慈郎に、彼に自然と多く芥川探索の命が下るようになったのは自然な流れだった。慈郎はそれを毎回律儀なものだなと思っていた。
 ある日の昼休み、いつものように寝やすいスポットを求めて中庭の奥へ赴いた慈郎は甘栗色の頭を見つけた。日吉だ。なんでこんなところに。日吉は慈郎に気付く様子もなく、じっと日だまりを見つめながらぽつりと呟く。

「……ここ、芥川先輩が寝やすそうだな」

 候補にしよう、と手帳に記して去っていった日吉に対し、慈郎はこみ上げる笑いが零れてしまわないよう必死だった。
 だって、頼まれもする前から、昼休みにわざわざ自分のいそうな場所の目星をつけて。そうまでして自分を見つけようと頑張っていたのか。しかも読みが当たっているところがまた面白くておかしくて、一体どれだけ自分を探し出すことに情熱を傾けているのかと!
 慈郎は何も日吉を馬鹿にしているわけではなかった。自分を早く見つけ出してさっさと練習に戻りたいのだろう。大した向上心だ。その矛先が自分にも向けられていることが楽しくて面白くて仕方がなかった。心をくすぐられた。
 日吉のテニスが見てみたい。
 慈郎が日吉に興味を持った瞬間だった。

 あれから何度となく日吉は慈郎を探しに来た。結局レギュラーになった後も慈郎を見つけられるのは(跡部を除けば)日吉くらいなものだったので、“慈郎係”は健在だ。1年以上も自分を探しに来た日吉に、慈郎は思わざるを得なかった。「日吉は自分に甘い」。
 今だってそうだと、慈郎は未だ起き上がることもなく思う。出しっぱなしの教科書や開きっぱなしの鞄が日吉の目にどう映ったのかはわからないが(いやだらしなく映ったのだろうが)自分を起こすこともなく、さらには風邪を引かないようにとブレザーまでかける気づかいは、自分への甘やかし以外の何物でもない。別にこれは今の関係だからというわけでもなかった。恋人同士になる前からずっと甘いのだ。だというのに、日吉は本気で気付いていないのだろうか。これがたとえば宍戸や岳人であれば容赦なく蹴り起こしていただろうし、鳳や樺地は困ったような表情で揺すり起こしていただろう。跡部は起こさないかもしれないが、その場合次に自分が目を覚ましたのは恐らく車で送られて自宅へ着いた後だ。部員の中で、一体誰がブレザーをかけるだろう。誰が起こさないようにそっと片付けをするだろう。日吉だけだ。日吉しかいないのだ。
 飽きずに日吉を眺めていた慈郎は、日吉が何気なく両手の指を擦り合わせたのを見逃さなかった。慈郎にブレザーを貸している日吉は、当然だが上はセーターだけである。慈郎は日吉に甘やかしてもらうことが好きだ。しかしそれと同時に、日吉を甘やかすこともまた好いていた。

「ひよし!」

 突然声を上げた慈郎に、日吉はぎょっとした顔でこちらを見やる。起きたんですかと言う問いには軽く返事をして、日吉の後ろから抱きついた。日吉はさらに驚いた表情を浮かべている。日吉の身体は暖房のついた部屋にいるので決して冷たくはなかったが、当然のように慈郎の方が温かった。着込んでいないといくら空調を整えても芯から冷えるのだ。指先や爪先にはそれが直に現れる。

「俺あったかいよ、ほら」

 手のひらを包むようにして温もりを分けると、日吉の頬が小さく染まった。視線が慈郎から外れる。「今まで寝てましたもんね」。口をつく言葉は可愛げがなくても全く構わなかった。振り解かれない手と目を見ればそれで充分だ。

「日吉は俺に甘いよねえ」

 しみじみと呟いた慈郎に日吉は「は?」と呆けた後、そんなこと言っても次は片付けてあげませんからねと全く見当違いなことを言っていた。

ほしくずもおぼれる。

日吉お誕生日おめでとう!!!
(141205)