「暑いわ…」

 残暑も厳しい季節、額の汗を拭うような仕種でブルーは呻いた。
 真夏はついついエアコンのスイッチに手を伸ばしてしまっていたが、8月も終わればそうもいかない。暦の上ではもう秋という言葉に戒められるようにクーラーのリモコンから電池を抜いた。元々放浪者で家にいることも少ないし、節電を考えるならこちらの方が効率がよいのである。代わりに夏の始めにしか出番のなかった扇風機が大活躍しているが、こちらは大目に見てほしい。
 扇風機の風を顔面に受けながら、ブルーはしぼり出すような声で「あー…」と唸る。後ろ髪を束にして片手で持ち上げると、首筋から空気が背中に送り込まれ一気に涼しさが増した。
 この夏、外出の際でもブルーは髪の毛をおろしていた。寒さに滅法強い代わりに暑さにはすこぶる弱いブルーであるが、首筋が日焼けするのを疎んじ頑なにそこを守り続けた。
 室内ではクーラーのおかげで快適な生活を送っていたし、暑さを理由に髪をうっとうしく思う機会はほとんどなかったのである。
 なかったのだけど、クーラー断ちをした今、非常に邪魔くさい。
 ヘアゴムを探しに鏡の前にのろのろと移動すれば、ブルーは迷うことなく髪を高く結い上げた。意地のように日焼けを気にしていたが室内では関係ないし、クーラーの恩恵を受けられないこの状況ではそんなことも気にする余裕もない。
 再び扇風機の前に舞い戻ろうとブルーの爪先がリビングに向いたとき、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。はて、郵便だろうか。暑さに駆けることも億劫で、ブルーは大きく返事をして在宅を知らせると玄関へ歩いていく。

「はいはいはーい」

 返事をしながらドアを押し開けると、そこにいたのは意外な人物であった。郵便屋の少年あたりだろうという見当は外れ、向けられると思っていた笑みの代わりに見慣れた仏頂面が覗いている。

「…グリーン?」
「俺以外に見えるとしたら暑さに目をやられたな」
「どうしたの、いきなり」

 今日は何も約束などしていないはずだ。
 約束もなしに会えるほど、トキワのジムリーダー様は暇ではないのである。それこそ、暑さに幻覚を見たかと疑うくらいには珍しいことだった。

「おじいちゃんの研究所に資料を貰いにきたから、ついでにと」
「やだ、ブルーちゃんの顔見に来てくれたの?」
「いや、読みたがってた本を届けにきた」

 仮にも恋人の家を訪ねてきているのだから、「会いたかった」のひとことくらいあってもいいだろうに。
 しかし、面白くない気持ちがないわけではないものの、わざわざブルーが探していた本を手に家へ寄ってくれたことは素直に嬉しい。嬉しいがわざと拗ねるように唇を尖らせて見せ、それでもありがとうとブルーが本を受け取るべく手を伸ばすと、ひょいと逃げるようにグリーンに本を持ち上げられてしまった。

「グリーン…?」
「膨れるな。会いに来たに決まってるだろう」

 とん、と本で頭を小突かれて優しい表情を向けられ瞬く。じわじわと嬉しさが身体を駆け上がって、ブルーは思わずグリーンに抱き着いた。
 それを容易く受け止めた彼は本を靴箱の上へ乗せると、至近距離でさらりと揺れた髪に目をやる。

「…珍しいな」

 髪束に触れてそう零したグリーンに、クーラーのリモコンの電池を抜いたところから始まる事の経緯を話す。
 暑いなら電池を入れ直せばいいだろう、ともっともな意見を貰ったが、いかんせんブルーは自分が物ぐさな性格をしている自覚があった。そんな手間のかかることは却下だ。

「ポニーテールも似合うからいいでしょう?」
「別に、お前は何でも似合うだろ」

 ふふん、と髪の先を揺らしながらおどけたのに、真顔で返され面食らう。何でも似合うよなんていかにも当たり障りのない言葉なのに、グリーンがそれを世辞なんかで言っているわけではないとわかるのでどうしていいかわからなかった。嬉しさと気恥ずかしさを抱えたままありがとうとしどろもどろに礼を伝えて、お茶くらい飲んで行きなさいよと中へ促す。
 リビングへ向かうべくグリーンに背を向けたブルーは、彼の視線が露わになった首筋へひたすらに注がれていることに気づかなかった。
 夏の間にも日焼けしなかった真っ白な肌には汗の玉が浮いている。
 それを捉えるや否やグリーンの身体は動いていた。

「…ブルー」
「んー? なあ、にッ…?!」

 柔らかな首筋に唇を寄せべろりと舐める。
 汗の匂いにくらくらした。
 中心よりもわずかに右の部分を吸い上げれば、赤く名残が残る。

「なななな…ッ!」

 何を、と言いたげにはくはくと口を動かしてブルーがグリーンから距離を取ると、首を守るように手で覆った。吸われた感覚はあるのか、色づいているであろう部分をその手が撫でる。
 外では結ぶな。しれっと告げられたわがままにわなわなと震えた。
 結ぶなも何も。これではもう。

「言われなくても結べないわよ!」

 ブルーは赤い顔のままむしり取るようにヘアゴムを外すと、せめても仕返しに彼へ投げ付けた。

本当に暑いのですか
(その顔色、気温のせいだけなのですか)

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(130916)