「若、今日の放課後空けとけよ」

 決定事項として告げられた言葉に、日吉はぐっと眉間にしわを寄せた。跡部の突飛な誘いはもう数えるのも馬鹿らしいくらいの回数となっていて、日吉だって渋い顔のひとつもしたくなるというものだ。下剋上を信条にしているわりに、日吉は年上や実力のある者への礼儀を軽んじない。それは道場での鍛練の賜物なのだろうが、だからこそ、こんな風に不満を露骨に露わにすることはいただけなかった。
 しかし、と日吉も弁解したくなる。テニス部にいると、不条理で取り繕うのも下らなくなるようなことばかり起こるのだ。こうして露骨に嫌な顔ができるようになってしまったのも仕方がない。むしろ物心ついた頃から礼儀を重んじる指導を受けてきた自分に、ここまでひどい態度をとらせるテニス部が悪いのではないだろうか。初等部の頃、遊びに誘われて「そろばん塾があるから」と角が立たぬよう断っていたのが懐かしかった。今であれば「お前に割く時間が惜しい」と一刀両断するだろう自分が容易に想像できて、これが成長というものかと感慨深くなる。
 そんなわけで日吉は、中学生へと成長し不遜な態度を取ることを覚えたのだが、跡部相手に誘いを蹴るのは難しかった。なにぶん跡部は、いま日吉が下剋上を誓う人物その人なのである。跡部もそれを知っていて、こうした突発的な誘いの中に時折テニスの試合を織り交ぜてくるものだからなおのこと腹立たしい。無下にして下剋上の機会が減って損するのは日吉だけで、跡部は痛くもかゆくもないのである。何だか自分だけが振り回されているようだ(そうして実際そうなのだが)。
 しかし今日ばかりは、日吉が顔をしかめた理由はそれだけではなかった。露骨に寄せたその眉は、苛立ちや不満を表しているが常である。それなのに今日は、そこに不可解そうな色が乗っていた。
 おや、と跡部が片眉をあげる。ぎゅっと眉間にしわを寄せる日吉の表情を見るのが好きな跡部だが、そこに見える感情の違いに気づかぬほど疎くはなかった。いつもと違う気配を感じ取り、若? と呼び掛ける。何がどうしてそんな態度なのか、理由を言えと言外に促す。

「……あんた今日誕生日でしょう」

 俺に構ってていいんですかと、嫌味ったらしく吐かれた言葉に跡部は目をわずかに見開く。開いた瞳をそのまま細めてくつくつと笑った。

 10月4日は跡部景吾の誕生日である。誕生日記念と称して、大人たちの思惑飛び交う社交パーティーは開かれるし、挨拶回りは面倒なことこの上ない。跡部のためとは名ばかりで、人の思考を見抜く力に長けている跡部にとって、今日は上辺だけでへつらう大人に心底うんざりする日であった。
 それが今では。一昨年も去年も、テニス部の輩はどんちゃん騒いで、最早跡部の誕生日を祝っているのか楽しむダシにしているのかわからないくらい騒ぎ尽くす。しかし皆が一様にくれるおめでとうという言葉には、跡部への祝福の気持ちが混じり気なく込められているから、跡部はくすぐったくてたまらなくなるのだ。打算もない媚びもない、まっすぐな気持ちを向けられる放課後は、夜からの鬱々とした大人の時間を含めても跡部に「いい日だった」と思わせるような時間だった。
 今年は馬鹿騒ぎの筆頭である面々が受験生であることから「誕生日プレゼントは合格通知でいいぜ、あーん?」と騒ぐことはやめさせたが「くそくそ! そんなん言われたら勉強するしかねえじゃんか! 跡部おめでとう!」「おめでとー跡部! 俺跡部のためにぜってー合格通知貰うCー!」と地団駄を踏まれたり満面の笑みを向けられたら「俺のためじゃなくて自分のために貰え」とため息しながらも、跡部だって唇の端が上がるのを抑えられなくなるのだ。
 鳳が「今年の跡部さんの誕生日会は延期だって」と告げてきたので、日吉も今年の跡部の誕生日は、受験明けに慰労会を兼ねて祝うことになっているのを知っている。とはいっても、日吉は1年生の頃跡部の誕生会に参加していないので詳しいことはわからなかった。去年はそんなものに意義など見出だせなかったというのに、今では今年しか祝えないことを歯がゆく感じている。

 目を細めて笑う跡部に日吉は何がおかしいのだと眉をひそめた。一財閥のお坊ちゃまである跡部の誕生日だ。そう簡単に身体が空くとは考えられない。突然の誘いは百歩譲ってよしとしても、放置を食らうのはごめんだった。

「ワリィ、まさかテメェに気遣われるとはな」
「別にあんたを気遣ったわけじゃありません」

 むっすりとした表情の日吉にようやく笑いを引っ込めると、跡部はそんなことを口にした。否定の言葉を返したけれど、日吉が跡部の誕生日に価値を感じ、その時間を自分に充てることを対して不相応だと感じたことは事実である。
 自分よりずっと、その日を共に過ごすのにふさわしい人間がいるはずだ。それは跡部が、生まれた喜びを分かち合いたいと思うような大切な人であったり、はたまた“誕生日”という特別を与えて機嫌をとるべきビジネス相手であったり、ともかく自分に割く時間ではないと日吉は断言できた。
 何も間違っていないだろうその日吉をおかしそうに見つめて、跡部は口を開く。

「だから言ってんじゃねえか。今日の放課後を空けとけって」
「は、」
「夜は例年通り来訪者の相手をしなくちゃならねえ。この俺が誕生日のプライベートの時間に過ごす相手にお前を選んだんだ。光栄に思えよ?」

 再び日吉は黙り込んだ。
 日吉は、跡部が誕生日に過ごすべき相手は自分ではないと言った。しかし跡部は自分を選んだのだと言った。今日に限ったことではない。日吉は、跡部が自分に割く時間を常々時間の無駄づかいであると思い――同時にとても嬉しく感じていた。気にかけてもらうことが嬉しくて、声をかけられるのが面映ゆくて、日吉はそれを隠すように顔を歪める。

「……今さら何を言ったって、どうせこっちの都合は無視なんでしょう」

 いかにも折れてあげましたとでも言いたげに不機嫌な顔をする日吉に、跡部は噴き出しそうになる。渋々を装うその姿に、そうそうこれが見たかったのだと密かにほくそ笑んだ。
 インサイトを持つ跡部が、日吉の瞳に揺れる思いを汲み取れないわけがないのだ。
 喜びをひた隠して、気持ちを押し殺して、ぎゅっと寄せられた眉根ほど日吉の気持ちを雄弁に伝えてしまっているものはない。跡部は日吉のしかめっ面を見るのが好きだった。隠そうとすればするだけ深くなる眉間のしわはあまりに露骨で――それではまるで好きだと告げているようなものだ。

 誕生日、おめでとうございます。
 不本意そうに落とされた言葉に、一際ぎゅうっと日吉が苦い顔をしたものだから、跡部は愛しげに目を細めて返事した。
 早く、お前が気づくといい。俺がお前の思いに気づいたように、お前も早く気づけばいい。
 それは、日吉が顔をあげ跡部の表情さえ見つめられたならば、簡単に手に入る答えだった。

永遠に気づかないつもりなの
(いい加減、焦れるぞ)


跡部様ご生誕おめでとうございます
(131004)