爪を切って、ヤスリで整えて、それから磨く。
 撮影のある日だったら、これにマニキュアが乗ったりもするのだけど。

 黄瀬の爪へ費やす時間は長い。
 緑間のように指先を包帯で覆いはしないが――むしろ黄瀬の爪への心は緑間とは逆のベクトルを向いている――黄瀬だってそれなりに神経を注いでいた。
 黄瀬の爪は、緑間のそれにはない輝きを放っている。それは毎夜時間をかけてあれこれ手入れしているからであった。

 爪を整えるのはスポーツマンとして当然の礼儀である。
 自他への不慮の事故を招かないために、また緑間のような神経質なプレイヤーであれば体調管理の一つとして爪への配慮も怠らない。
 しかし、黄瀬が爪を磨くのはそういった理由からではない。整えるだけで事足りる爪をわざわざ磨き上げて輝かせるのは、バスケ選手としてではない。それとは別に、モデルとしてのプロ意識からであった。



「……まだやってんのかよ」

 頭上に降った声に指先から顔を上げると、呆れた様子の青峰がいた。
 黄瀬はぱちりと瞬きをして、そうしてゆっくりと辺りを見渡す。

「…ありゃ、みんなもう帰っちゃったんスね」
「アホ、夢中になりすぎだ」

 部活中に見つけたわずかな爪のささくれ。
 黄瀬は部活が終わるや否や緑間に爪切りをヤスリを押し付けられ、やれ引っ張ると化膿するのだよ、だの、もっと手先に気を配るべきなのだよ、だのと説教され部室に押し込まれた。
 帰宅してからする予定ではあったが、その場でするに越したことはない。ありがたく道具を拝借した黄瀬はささくれを綺麗に取り除き――そうしたら、ちょっと小指の爪が伸びてきたかもしれない、こっちの方もささくれてきそうだとあっちこっちに手を広げて、気付けば青峰に話しかけられるまで熱中していた。

 そういえば、と振り返る。途中で何人かに声をかけられた気がする。あれは帰りの挨拶だったのだろう。
 おざなりな返事をしてしまったが、黄瀬くんもあまり遅くならないようにして下さいね、と言われたのを思い出す。

 ――ごめんっス、黒子っち。もうすっかりお空は真っ暗っスよ……。

 体育館の窓から見えた星空に心の中で黒子へ謝罪すると、そういう青峰っちは、と視線を戻した。
 自主練終わりなのだろう。肩にかけたタオルで首元を流れる汗を拭う青峰は、濡れたトレーニングウェアを脱ぎ捨てる。

「爪切るのにそんな時間かかんのかよ」
「切るだけじゃないっスよ。切り口とかヤスリかけないと服に引っかかるじゃないっスか」

 ほら、と手を突き出した黄瀬に青峰が身を乗り出した。些細な部分なぞ視認できるはずもなく、自然と黄瀬の指先に手が伸びる。
 指を掴んで爪の先を指の腹でなぞり上げれば、なるほど、確かに滑り心地がいい。

「てかほせえ」
「な! ちゃんとスポーツマンの手っスよ!」
「白いし」
「……そりゃ青峰っちと比べたら当たり前っス」

 関節の筋張り方なんて明らかに男のものなのに、それでも青峰の目には女の手よりも綺麗に映った。
 それは黄瀬がその手を大事にしてあれやこれやと気を配っていることを知っているからで、その手でバスケをすることを知っているからで、これがいつも自分に触れている手なのだと知っているからである。要するに、ただの欲目だ。

 だから、その後つるりと口から漏れた感想も、欲目の大いに反映された――だけども本心だった。

「かわいいな」
「はっ?!」

 青峰は、きっと零したつもりも零れたことも気付いていないのだろう。
 顔色も変えず、黄瀬の取り乱した様子にも気付かずに相も変わらずその手をしげしげと眺めている。

 困ったのは黄瀬の方だ。
 先ほどから、予想外に長く手を掴まれて困惑していた。何せ青峰の格好と言えば未だに半裸で、何気なく差し出した手は、触れ合った箇所からしっとりと汗ばんできそうだった。
 そろそろ離してほしいと告げようと思っていたときに、そんなこと。

 かわいいなんて嘘だろう。
 綺麗な顔立ちの自覚はあるし――なんたって、今をときめくモデルなのだから!――愛嬌を振りまく様に女の子たちは「可愛い」と言ってくれるけど。
 青峰の言う「かわいい」はそれとは違う。

 うろうろと視線を彷徨わせて、もう完全に指を離して貰うタイミングを失った黄瀬は青峰が飽きるのをひたすら待った。
 この男、バスケ以外への関心は恐ろしく低い。男の指先なんて、すぐに興味を失うはずだ。
 そうだろうと踏んだのだが、予想に反して青峰の手も視線も去っては行かない。

 青峰は黄瀬の手を引き寄せると、そのまま指の付け根から爪先までをなぞり上げた。
 そうしていつか桃井が言っていた、ロマンチックなキスの話を思い出す。

  手の上なら、尊敬のキス。
額の上なら友情のキス。
 ああ、指は何だったっけと、思い出す前に唇を落とした。

 何だっていいさ。するのが俺で、されるのがお前なら、どこにしようと恋情のキスだ。

Anywhere is not minded
(どこだろうと構わない)


突拍子のない俺論で満足する青峰と、突拍子なくてかわいいって言われたあとに指にちゅーされて「?!!」な黄瀬くん
蛇ちゃんへプレゼントしました
(120705)